縁は異なもの味なもの、と申します。
人と人との縁、まして男女の縁などというもの、ほとんど偶然の塊のように感じます。
私は縁あって、同居人と平成10年に一緒になり、もう15年も一緒に暮らしています。
子どもが出来ないなか、良好な関係性を保っています。
しかし、あっちの縁を選んだらどうだっただろうと言う失った縁が、5、6件くらいあります。
それらの女性たち、今となっては単なる飲み友達になり、彼女たちもそれぞれに男とくっつきましたが、成就しなかったがゆえの淡い恋心は未だに残り、それが飲み友達としての関係性を維持せしめているものと思います。
なかには、すでに婚約していた私に向かって、「もっと早くとびおさんに出会いたかった」と涙を流した女性もいました。
じつは、同居人には言えませんが、私も同じ気持ちでした。
しかし、糞真面目な私は、酒杯を目の前に涙を流す、私にとっても愛おしい女性に対して、道を説く他方法がなかったのです。
無粋な話ですねぇ。
柔肌の 熱き血潮に 触れもみで 寂しからずや 道を説く君
という与謝野晶子の歌は、誰もが知っていると思います。
この歌に接すると、過去のあまたの女性との肉体的接触を、激しく思い出します。
張りきった肌、女性特有の香り、その肌の感触、女性のあえぎ、それらすべてが、不能となった今、懐かしく、さらには情欲をもって思い出します。
しかし、40代半ばにして、私はそういった世界から遠ざからなければならなくなりました。
何しろ、ヴァイアグラでも飲まないかぎり、物の役に立たないのです。
ヴァイアグラを飲めば、役には立ちますが、それは下半身だけのことで、私の情欲を刺激する作用はありません。
そこまでして、女性と肉体的接触を持ちたいとは、もはや思いません。
今の私と同居人は、性器を失ったキューピットちゃんのようなものです。
同居人は、性交が無くとも、ただ黙って抱きしめてくれればそれで十分だと、可愛いことを言ってくれちゃいます。
それを聞いた私は、ただひたすら、同居人を抱きしめつつ、過去の他の女性との接触を思い出す愚か者なのです。
欲望と言うものは、食欲であれ、性欲であれ、完全に満たすことは無いのだと思います。
美食であれば、もっと旨い食い物があるのではと思い、性欲であれば、もっと体が合う女がいるのではないかと思います。
しかし、おそらく、そういう物は存在し得ないのだと思います。
旨い物にも、満足できる女にも、限りがあります。
そうであってみれば、欲望追求の空しさを知り、欲望を断ち切ることこそ、幸福への道に違いないと思うのです。