名誉ある地位

社会・政治

  昨日の京都日帰り出張の疲れか、今日は一日ごろごろして過ごしました。

 近頃大分冷えてきましたが、私は幼い頃から、秋ごろから手や足の末端の冷えの冷えに苦しめられてきました、

 中学生から大学生の頃までは、普通の靴下をはいて、その上に登山用の靴下を履いてしいだものです。

 今はユニクロのヒートテックを下に着て、でスーツを着てもばっちり決まっています。

 中国古代文学のシンポジウムを開いた時、多くの中国人学者が押し寄せましたが、その時、某中国人学者が「とびおさんは中国人が思い描く日本人そものです」とほざきよりました。

 それはおそらく、小柄で、スリムで、しかし侍を思わせる眼光鋭い感じで、しかもスーツ姿が決まっていることがそう思わせたのだろうと推測します。

 なにしろ中国人学者は、判で押したように丸顔で、体型もぽっちゃりしていて、表情に力が無く、しかもスーツがダボっとしていましたから。

 わが国は平安時代に国風文化の花を開かせるまで、なにしろ中国文化をお手本に、それを学ぶことを第一にしてきました。

 しかしそれは表面的なことだけ。

 はるか昔、聖徳太子は中国(隋)皇帝に対し、「日出る処の天子、日没する処の皇帝に書を致す。つつがなきや」と、当時の巨大帝国、隋に対し、小さな島国の日本が、同等であるかのような文を送っています。

 隋の皇帝はこの文を見て激怒したそうですが、わが国を攻めるリスクを犯しはしませんでした。
 聖徳太子は、そのことあるを予想して、あえて挑発したものと思われます。

 すなわちわが国は、何も近代、明治維新の際に傲慢であったばかりでなく、はるか古代から傲慢であったものと思います。

 幕末、公使ハリスの通訳を務めた役人の日記には、当時20代であった高杉晋作が、年齢的には親のようなハリスの前に魔王のように立ちふさがった、と記されています。

 何よりも、おのれの力を恃み、おのれの力で国を守るという伝統が、聖徳太子の昔からわが国を貫いていたものと思います。
 だからこそ、わが国は植民地に堕するどころか、帝国主義国家として世界に打って出て、大戦に敗れた後は経済分野で世界を席巻できたのだろうと思います。

 しかし半島の人々は、古くは中国に頼り、その後日本に頼り、さらには北は中国、南は米国に頼って国際社会を生き延びてきました。

 平たく言えば、一度も自らの力を頼ったことが無いわけで、その自信の無さがわが国の歴史認識を責めて溜飲を下げるという、狂気じみた行為に駆り立てているものと思われます。

 愚かながらも、可愛そうなことです。

 どこまで行っても自国に自信が持てないのですね。

 だからこそ、大戦に敗れながら、技術などの分野で世界と互角に渡り合い、今も有色人種で唯一の先進国と見做されるわが国が羨ましくて仕方ないのでしょう。

 その気持ちは分かりますが、そうなるには地道な努力が必要です。

 一足飛びに世界で名誉ある地位を築くのは不可能なのですから、少しづつ、誰もが韓国は信頼できる、というイメージを世界が持つよう、コツコツ努力するとしか無いと思います。

 強い韓国はわが国にとっても利益なのですから、隣国がおかしな言動を続けても、我慢強く、まともな政権が生まれ、新生韓国が強くなるのを待つほかないと思います。

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