米国は戦後、日本国政府を存続させ、間接統治を行いました。
当初米国は直接統治を行う予定だったと伝えられます。
それは総統官邸が落ちるまで徹底的に戦ったドイツが統治能力を失っていたことから、わが国も同様であろうと考えたからだとされています。
しかし、わが国が本土決戦を回避したことなどから、敗戦直後もわが国政府の統治機構は十分に機能していました。
それを知ってなお、計画通り直接統治を行おうとしたところ、日本政府高官から激しい反発を受け、わけても、白洲次郎が、「我々は戦争に負けただけであって、奴隷になったわけではない」とGHQの高官を怒鳴りつけたことが影響した、という嘘のような話も残っています。
幕末、高杉晋作という若者が英国公使の前に魔王のように傲慢に立ちふさがった、という英国人通訳の日記や、聖徳太子が隋の皇帝に送って相手を激怒させたと伝えられる「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」と言う手紙を想起させます。
傲慢はわが民族の特質の一つかもしれません。
ましてつい最近まで獅子奮迅の戦いぶりを見せ付けていた日本軍の怖ろしさを鮮明に記憶していたはずの米国人からしてみれば、わが国を安定して統治するためには、この小さいながら怖ろしい連中が反乱を起こしたら大変なことになる、と危惧し、間接統治へと方向転換せざるを得なかったものと思われます。
それは結果的に、GHQにとっても得策だったのではないでしょうか。
日本政府の上に胡坐をかけば良いのですから。
しかし、沖縄や奄美、小笠原などには直接統治、その後信託統治を行ったため、激しい本土復帰運動が起きてしまいます。
奄美の教育界はなんとかして新しい日本の教育法規や教科書を手に入れたいと考え、教員2名が職を辞し、コック見習いという身分で神戸に向かう船に乗り込み、本土でそれらを手に入れて、島ではせっせとガリ版で刷っては密かに本土並みの教育を行うべく努力したと伝えられます。
最大の功労者となった2名の元教員は密航を行った犯罪者ということで、10数年前に亡くなるまで、ついに教員に復帰することは許されませんでした。
奄美の人々が本土復帰運動の際歌った「日本復帰の歌」は、激烈な内容ながら、美しい音色に載せられて、今も歌い継がれているそうです
太平洋の潮の音は
わが同胞の血の叫び
平和と自由をしたいつつ
起てる民族二十万
烈烈祈る大悲願
われらは日本民族の
誇りと歴史を高く持し
信託統治反対の
大スローガンの旗の下(もと)
断乎と示す鉄の意志
目ざす世界の大理想
民族自決独立の
われらが使命つらぬきて
奄美の幸と繁栄を
断乎護らん民の手に
二十余万の一念は
諸島くまなく火と燃えて
日本復帰貫徹の
のろしとなりて天を焼く
いざや団結死闘せん
民族危機の秋(とき)ぞ今
本土から切り離された奄美の人々のあまりに切ない思いが伝わってきますねぇ。
さればこそ、今も南北に分断された朝鮮半島の人々や、世界各地で民族自決を求める人々の悲哀を思わずにいられません。