冬至に向かって日に日にお日様は遠く短くなります。
そんな今頃は、死を予感させる季節だと言えるでしょう。
古来人間は、死というものの意味を考え抜き、死があるから宗教や哲学が生まれたと言っても過言ではありません。
人間にとって最終的に、そして唯一重要なのは、死をどう捉えるかということになるのでしょう。
わが国では死後、穢れた黄泉の国へ行くとされ、仏教受容以降、にわかに西方浄土へ行くことを願う阿弥陀信仰が盛んになりました。
キリスト教徒やイスラム教徒は最後の審判の後、天国へ行くことを願います。
いずれも艱難辛苦に満ちた現世を生きる人々の切ない願いが生みだしたもので、それ自体は嘘であろうと真であろうと、大した意味は持ちません。
それを信じることによって現世での苦しみがわずかでも軽減され、幸福感が増すという効用があるという事実が重要なのでしょう。
しかし現代の日本人は、ほぼ信仰を持っていない状態になっています。
信仰がほとんど無い状態で、わが国びとが高い倫理感を維持してきたのは奇跡的なことで、宗教に代わる武士道や儒教などの道徳が庶民に至るまで染みついていたためと思われ、それは今も変わらないと私は考えています。
私自身、確たる死生観も信仰も持ち合わせてはいません。
私はただ、一日の終わり、一杯の酒を前にして、「今日もすべて事もなし」とつぶやき、その日の無事を感謝するのみです。
人生一寸先は闇。
せめて今日の無事を祝うことで、明日を生きる力を蓄えたいと願っています。