今、イスラム国による人質事件が起きて、イスラム教というもの、ひいては宗教というものの在り様を考えざるを得ません。
私たち日本人は、宗教に極めて寛容で、あなたは何教徒ですか、と問われれば、圧倒的多数が無宗教と答えるでしょう。
私自身も、仏教や神道、儒教や西洋哲学が混然一体となった、私一人だけの宗教のようなものを信じているとしか言いようがありません。
それはもはや宗教などというものではなく、個人的な思想信条と言うべきものなのでしょうね。
これは世界では特異な現象なのではないかと思います。
欧米では、インテリ層の多くがキリスト教を信じてはおらず、単なる慣習と捉えていると聞いたことがあります。
それでもインテリ層以外では、今もキリスト教は心の支えになっている例が多いようです。
ロシアでもソビエト崩壊後、ロシア正教が復活し、多くの信者を集めています。
イスラム圏となると、イスラム教を信じる者でなければ真なる友情を育むことは難しいと聞き及びます。
よく聖書に隣人という言葉が出てきますが、ものの本によると、隣人というのは何も隣近所に住む人という意味ではなく、同じ宗教を信じる親類縁者という意味だそうです。
したがって、敵を愛せという教えも、敵対する個人や国家というより、異教徒とか、親類縁者以外の者という意味になるようです。
これは宗教を意識せずに生きている日本人にとって、驚愕すべき事態で、裏を返せば私たちが宗教に無頓着であるという事実は、イスラム教徒らにとって驚くべき状態ということになるでしょう。
私たちはこの島国の小さな常識に従いつつ、多くの国々においては宗教が死活的に重要な意味を持っていることを思い知るべきでしょう。
1986年にスペースシャトルが打ち上げ直後に爆発するという痛ましい事故が起きました。
この時大江健三郎は、宇宙意志からの警告という挑発的な言葉を使いました。
下品な物言いだと思います。
しかし私は、宇宙意志だか主だかアッラーだか知りませんが、何かしら人智を超えた存在が確かに在るという予感を持ち続けています。
もしかしたらそれぞれの宗教が最高神と呼ぶものはすべて同じなのではないか、と。
それをそれぞれの文化に合った形の宗教にしているだけで、本質は変わらないような気がしてなりません。
SFでよく描かれるような、人間よりほんの少しだけ知能が高い生命体が太古の昔に地球にやってきて、それを人々は神様だと信じたのだとかいう与太話も、あながちウソではないような気がします。
単なる知能の高い生命体であればこそ、神様は完全では無く、争いの種を生んだのかもしれません。
唯一絶対神を設定してしまえば、それ以外の神様はすべて偽物だということになるのは理の当然で、神様は唯一だとする教義を持てば、争いが絶えるはずはありません。
わが国では仏教の受容に際し、神仏習合とか本地垂迹とかいう理屈をひねり出し、神も仏も姿かたちや成り立ちが異なるだけで、本質的には同じものなのだという一種の方便を作り出し、それがゆえ、たとえ他宗派と激しく議論したり、時には罵り合いのようなことをしながらも、宗教戦争というのはついに起きませんでした(但し、権力者に弾圧された場合の抵抗は除く)。
ここに、宗教的対立を解決する糸口を見出すのは、私がこの国に生まれ育ったことだけに拠るものでしょうか。
もしそうなら、宗教対立について、私は語る言葉を持ちません。
そうでないなら、わが国以外にも神仏習合や本地垂迹に相当するような思想を生み出す余地があると言え、私はそれこそが宗教に起因する争いを防止する策であろうと考えています。
もし宇宙意志が平和を望まない邪悪な存在でないなら、それは達成可能な目標のような気がします。
平和な国のマイナーな意見かもしれませんが、私はまじめにそう考えているのです。