初夏だ

文学

 初夏を思わせる昭和の日でした。

 私は午前中、長い朝風呂に疲れて、ごろごろしていました。

 お昼が近付き、少し元気になって、自室を整理していたら、もう7~8年前に書きかけて、そのままうっちゃっていた小説の原稿が出てきました。
 原稿用紙250枚くらいで仕上げる予定だった作品で、40枚ほどで留まっています。
 その小説のことは気にかかっていたのですが、精神障害に苦しめられたり、その後の復職に気を取られたりで、そのままになっていました。

 で、読み返してみると、私が書いたとは信じがたいほど、面白いもので、早く続きを読みたいと思ったのですが、それには私が書かなければなりません。

 それは大層おっくうなことで、弱りました。

 で、私は夏が苦手。
 夏の訪れを感じ始めた今、過酷な季節に七面倒な小説執筆など出来るかと、先延ばしにした次第です。

 初夏だ初夏だ 郵便夫にビールのませた
 
 北原白秋にしては珍しい、自由律俳句です。

白秋 青春詩歌集 (講談社文芸文庫)
三木 卓
講談社

 自由律俳句は明治の終わり頃から昭和初期に流行った独特の俳句で、五七五及び季語にとらわれず、人生を率直に詠うことを旨とします。

 種田山頭火尾崎放哉らがその代表であり、当時、文学を愛好する人々から大変な支持を受けたと聞き及びます。

山頭火句集 (ちくま文庫)
村上 護
筑摩書房

 

尾崎放哉全句集 (ちくま文庫)
村上 護
筑摩書房

 
 しかし私は、自由律俳句をあまり好みません。
 それなら当時すでに本朝に取り入れられていた自由詩で表現すれば良いものをと感じるのです。

 定型詩というものは、約束事を守りながら、その束縛の中で、美や、魂の叫びをうたいあげることを求めます。
 言わば、不自由の中の自由を求めることにこそ、面白味があるわけです。

 それをはなから自由に詠むというのでは、詩歌としての面白味は半減しようというものです。
 もちろん、自由律であっても、秀句は存在します。
 しかしそれも今となっては時代の徒花のようになってしまいました。

 それを思うとき、私は言葉の持つ力の不思議を思わずにはいられません。
 私の情動を激しく揺さぶるものは、小説にせよ、詩歌にせよ、流行歌にせよ、言葉の力であるに相違ありません。
 私はその言葉に力を感じれば、ジャンルなど、全く気になりません。

 例えば、小学生に人気があるという、SEKAI NO OWARI というバンドが歌う非現実的な恋の歌に、深く感応して、鳥肌が立つほど感銘を受けることをもって、明らかです。

 私は、例え時代の徒花であろうとも、小学生向けの歌と嘲られようと、その時代の人々を感動せしめ、うっとりとさせた言葉を、大切にしたいと思っています。

 そして出来ることなら、他人はともかく、私自身をうっとりとさせるだけの力を持った言葉を、生み出したいと切に願わずにおれないのです。