それにつけても金の欲しさよ

その他

 それにつけても金のほしさよ、とはよく言ったものです。 

 お金というのは大体どんな社会にもありますね。
 物々交換では経済が発展しませんから、お金が発明されたわけですが、昔は金貨や銀貨だったものが、いつの間にやら紙切れに代わってしまいました。

 紙切れが欲しくて欲しくて仕方ないのが凡人というもの。
 しかしそれも当然で、紙切れがなければ寝るところにも食べる物にも不自由し、下手をすれば死んでしまうわけですから。 

 そういう私も平日の大半を紙切れを手に入れるために浪費し、時には宝くじなどを購入して一攫千金を夢見る守銭奴です。

 世の中には金で買えない物もある、という言い様をする人がいますが、裏を返せば金で買えない物はほとんど無い、という意味でしょうね。
 うなるほど大金を持つ必要はありませんが、まぁまぁお金の心配をしなくても人並みに暮らせるだけの収入が無ければ、人は幸福にはなれないでしょう。

 貧乏はそれだけで不幸だろうと思います。
 貧乏ながら楽しく生活、なんて言ったって、それは生活できる程度の貧乏であって、食うや食わずの極貧であれば、心は荒むに違いありません。 

 私は心が荒むほどの貧乏はさすがに経験したことがありませんが、かといって人並み外れた裕福な生活というのも経験ありません。
 どこまで行っても人並みか、ちょっとマシと言う程度ですかねぇ。

 で、私はやむなくそれで満足しているわけですが、職場には信じられないようなケチな人がいます。 

 京都に出張した際、夜行バスを使って旅費を浮かせ、浮いた分は懐に入れてしまったり、兼業農家の職員が自宅で採れた果物を格安で職場で販売したり、昼飯代を浮かすために毎日お昼は抜きだったり。
 犯罪的行為か、健康を害する行為と言わざるを得ません。

 終戦直後、闇米を食うことを断固拒否して餓死した裁判官がいたと聞きます。
 職業的倫理観は見上げたものですが、何も命まで賭けなくてもねぇ。
 裁判官ですから、闇米を買う金くらいはあったのでしょうが、倫理観がそれを許さなかったのですね。

 これはケチとかいう次元の問題ではなく、善悪の程度の問題でしょうねぇ。
 厳密に言えば犯罪なのでしょうが、職場の鉛筆を胸ポケットに入れて気付かず帰宅してしまい、そのまま家で使っている、程度のことは見逃されるのが普通でしょう。 

 闇米を食うのもその程度だと思いますが。

 私がケチれないのは、交通費ですねぇ。
 精神障害の後遺症か、狭い場所に長くいるのがどうしても苦手。
 そのため電車はグリーン車、2~3万円くらいで行ける所にはタクシーを使うのを常としています。 

 あと、飯代。
 立ち食い蕎麦とか回転ずしとかマクドナルドとかチェーンの居酒屋とかは、どうしても行く気が起きません。 

 もう少し色々な面でケチることができれば、今頃は小金がたまっていたかもしれませんねぇ。

 それにつけても金の欲しさよ。

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