常識

社会・政治

 あまりコメントしたくない話題だと思って避けてきましたが、所謂安保法制が強行採決されて数日、私の感想を述べてみたいと思います。

 まず、この法律をもって集団的自衛権が認められた、という報道に、強い違和感を覚えます。

 戦争に敗れたその日から、わが国は少なくとも米国とだけは、集団的自衛権を行使しなければ国際社会で生きていけない立場に置かれたものと思います。

 わが国が長い苦難の占領から脱出した際にも、わが国の領土に米軍基地という外国の軍隊が置かれることが独立の条件でした。
 つまり、米国との集団的自衛か、あるいは米国独自の日本防衛です。

 しかし、米国人が日本を守るためだけに血を流すでしょうか?
 米国人の命は日本人のそれよりも軽いのでしょうか?
 日本防衛のために米国人が死ねばよく、日本人が死ぬことだけはあってはならないのでしょうか?

 外国の軍隊がわが国領土に存在するということは、日本人として屈辱的なことで、できればわが国の防衛はわが国の軍隊だけで遂行することが理想であろうと思います。

 当然です。

 わが国は戦後70年を経てなお、軍事的には米国の属国なのですから。

 そういう意味で、私は集団的自衛権を行使したくないと思っています。

 わが国が独立独歩の強力な軍隊を保持していれば、集団的自衛権など問題にもならないはずです。

 しかし、現実は違います。

 このたびの法律が採決されるはるか以前から、わが国は他国に自国の安全を委ねてきたのです。
 その際、共同で防衛にあたるのは当然のことで、とうの昔にわが国は集団的自衛を国防の根本に据えてきたのです。

 内閣法制局が集団的自衛権は憲法違反だなどと寝言をほざき続けてきたのは、木を見て森を見ないみたいな話で、現実は法律談義のはるか先を走り続けてきました。

 今回の法律は、遅きに失したというよりも、まだそんなことが問題になるのかと、驚きを禁じえませんでした。

 思い起こせば20数年前、PKO法案の時も、軍靴の音が聞こえる式の、浮世離れした批判が聞かれました。
  しかし、今やPKO活動に反対する人など、ごく一部になり、むしろ国際貢献として多くの国民からも、国際社会からも支持されています。

 おそらく、今回も一緒です。

 戦争の危機を回避するには、誰もが怖がるような強力な軍事力を保持することです。
 負けると分かっていれば、狂人でないかぎり戦を仕掛けてきたりはしません。

 それが争いごとが大好きな人間という種の愚かな現実です。

 明治維新後わずか40年でアジア初の列強に名を連ね、その30年後には太平洋の覇権を巡って死闘を繰り広げ、敗れて後は軍事力を失った腹いせのように経済戦争に血道を挙げたわが国が、平和国家などと叫んでみても、世界からみればちゃんちゃらおかしいというものでしょう。

 憲法9条は出来た当初は世界唯一だったかもしれませんが、今や世界の憲法に同じような条文は溢れかえっています。

 世界のスタンダードに従った法律や条約に、軍靴の音が聞こえるだの徴兵制が復活するだの、まるで60年安保当時のようなたわ言を繰り返すのは、わが国の言論空間にとって、無益なことです。

 私には妄想としか思えません。

 一体誰が、かつて七つの海を支配した英国が、大英帝国の夢よもう一度とばかり、侵略戦争を始めると思うでしょう。
 また、ドイツで再び国家社会主義の運動が全土を席捲すると思うでしょう。  


 現代社会は先進国が侵略戦争を起こすことが出来ないようになっており、わが国だけがこれを破るはずもなく、破ればわが国は壊滅的打撃を受けるでしょう。

 マスコミや政治家が、昔懐かしい理屈で、国民を馬鹿にしたような世論のミス・リードを続けるとしたら、それこそが国を滅ぼす発端となるでしょう。

 ちょうど戦前・戦中、大新聞などが戦争に駆り立てるような論陣を張り、国民をミス・リードしたように。