またもや辛い一週間が始まりました。
つい、なんで生きているのかな、という青臭い思いが頭をもたげます。
誰にも答えられない問いではありましょうけれど。
抹香臭い坊さんならば、仏教を学んで修行して、生きる意味を知りましょう、と答えるかもしれません。
バタ臭い西洋坊主なら、神の愛と天国を信じて今を生きましょうと答えるかもしれません。
いずれも、心を打ちません。
宗教では、この問いに答えることは出来ません。
答えたとしても、信仰を持たない者にとっては無意味です。
一つ言えるのは、金銭欲や出世欲、名誉欲を満足せしめようとしても、空しいばかりだということです。
欲望は際限がないので、いくらお金持ちになったところで、もっと欲しいと思うだけでしょう。
もちろん、食うに困るほど貧乏では、怖ろしく不幸でしょうけれど。
無ければ欲しいと思い、あればもっと欲しい、あるいは失うのが怖いと思うのがお金というもので、じつに厄介です。
もちろん私はお金が無い者の常で、お金持ちになれば人生面白おかしく生きられ、なぜ生きるのか、なんてくだらないことに悩まなくなるんじゃないかなと、考えている段階です。
しかし考えてみれば、お釈迦様はシャカ国の王子に生まれ、物質的豊かさを享受した末、29歳で出家しています。
持てる者であっても、根源的な疑問を持つことに変わりがないとは、いかにも面倒な生き物です。
で、結局のところ、なぜ生きるかと言えば、死ぬのが怖いから、としか言い様がないように思います。
死ぬほど生きるのが嫌になった人は、自殺してしまうでしょうし、現に自殺者は毎年わが国で3万人を超えています。
死の恐怖を越えてしまえば自殺するほど、世の中は苦しいのですねぇ。
で、私はなんで生きているのでしょうねぇ?
生きる積極的な理由はありませんが、死の恐怖を越えられないからですかねぇ?
秀吉ほど栄耀栄華を極めた人でも、辞世でおのれの人生を、夢のまた夢、と詠んでいます。
上杉謙信は49年の人生を振り返って、四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒、と喝破して見せました。
また、徳川家康は、人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、と言いました。
いずれも、人生が虚しく感じられる物言いです。
老人性のうつか、と思うほど、老境に至って、なんだか憂鬱そうです。
私があとどれくらい生きるのか分かりませんが、やっぱり一盃の酒に酔うた程度の人生だったと嘆くんでしょうか。
なんだか暗澹たる思いに囚われます。
何も分からないまま、ただ目の前の仕事にかまけて時を過ごすなんて、ドラッグでラリッたまま時を過ごすのと大差ないように思いますが、それでも食うため、死の恐怖から逃れるため、今週も、目の前の仕事=バッドトリップしかしない麻薬、にどっぷりつかって生きる他なさそうです。
私もお釈迦様のように乞食坊主になる勇気があれば良いのですが。