障害者の虐殺あるいは多様性

社会・政治

   やまゆり園で障害者19人を殺害した事件から昨日で丸1年ということで、昨日のニュースで大きく取り上げられていました。
 もう1年たつんですねぇ。

 犯人の27歳の男、元やまゆり園の職員だったとかで、そこでの経験から、障害者は他人を不幸にする存在でしかなく、安楽死させるのが社会のため、と思ったらしく、事件から1年を経てもその考えに変わりはないようです。

 まぁ、確信犯でしょうから、そう簡単に信念は変わらないでしょう。

 この事件の一報を聞いて思い起こしたのは、ナチが行った障害者の虐殺です。

 ナチと言うとユダヤ人虐殺が有名ですが、障害者や同性愛者なども虐殺の対象になっています。
 世の中の役に立たない、有害な存在という認識で、そういう考えはじつは結構一般的なのではないかと思います。

 しかし、殺されるほうにしたらたまったものではないわけで、現在ではそのような考え方は禁忌とされています。

 私自身、今は元気に働いているとは言うものの、30代後半の頃精神障害で長く職場を休んだ経験がありますから、その時期なら殺害の対象とされていたのでしょうね。
 怖ろしいことです。

 重度の障害があれば、働いたり、あるいは何らかの形で社会貢献することが難しいことは確かでしょう。

 しかし、人間は必ずある程度の確率で様々な障害を持った者が生まれるようにできています。
 
 それは多様性を持つことで、千変万化する地球の環境などに適応するために作られた人間の宿命とも言えます。

 全員が全員同じ体質では、わずかな変化で人類は滅んでしまいます。

 その多様性を担保するための存在で、今現在の環境や社会に適応が難しい人を仮に障害者と呼んでいるだけなのではないでしょうか。

 そういう意味では、人間はすべて障害者であるとも言えます。

 例えば、一日何十キロも歩いて狩りをするのが当たり前の社会なら、体力の無い私は障害者であるに違いありません。

 多様性を重んじるということは、障害者に人権を守るということに直結しなければなりませんし、それでこそ人間が生き残れるというものです。

 犯人に反省を求めても無駄なことでしょうから、生涯刑務所に閉じ込めて、無益な殺生を繰り返させないことでしょうね。