熾火

その他

 今日も同居人は施設の義母を見舞うため、出かけています。
 私は一人ソファでウトウトしたりして、のんびりと過ごしています。
 寂しいと言えば寂しいし、勝手気ままに出来て気楽だと言えば気楽です。

 思えば私は、20代も半ばを過ぎるまで、結婚願望など無く、一生独身で過ごすのだろうと思っていました。
 そのほうが色々な女性と遊べるし、楽しいだろうと思っていたのです。 
 それが何の因果か同居人と出会い、お付き合いをし、ついに結婚する羽目に陥りました。

 私の我儘で傲慢な性格ゆえ、早晩離婚すると思っていましたが、気付いたら結婚して24年が過ぎようとしています。
 来年は銀婚式。
 よくも続いたものだと思います。

 幸か不幸か子宝に恵まれず、だからこそ私たちは二人で生き、世界に二人で取り残されたような気分が今も続いています。
 恋は打上げ花火ではなく、熾火のように静かに燃え続けるものだと、今になって思います。
 同居人が人格者ゆえか、24年間、一度も喧嘩したことがありません。

 週末に二人で外食したり、散歩に出かけることを恒例とし、楽しみにもしてきました。
 しかし義母の老いゆえ、そのような時間を持つことはなくなりました。
 してみると、その散歩や外食といった、その時はなんとも思っていなかった小さなことが、とてつもなく幸福で、かけがえのない時間であったと思うようになりました。

 躁状態が激しい時は、女道楽に走ったこともありますが、同居人は、それは病ゆえと、気にもかけない様子でした。
   躁状態から醒めて、私は自責の念に駆られ、いつ離婚を切り出されてもおかしくないと思っていましたが、同居人は精神病患者と人生を歩み続けることを選んでくれました。
 躁状態の時の蛮行を思うと、頭が上がりません。 

 義母はもはや車椅子の生活になり、おそらく施設で余生を暮らし、老いていくものと思います。
 その姿は、私たちの未来を暗示しているようで、怖ろしくすら感じます。

 体のあちこちが痛み、悲観的になり、我儘になった義母。
 人はこうして老いていくのだと、しかも早死にした場合を除き、必ず老いるものだという人間の真実を見せつけられているように感じます。

 私の実父は72歳で亡くなりました。
 入院して一週間も経っていませんでした。
 それまでは元気でいたのに。

 義父は82歳で亡くなったのですが、謎の感染症に罹患し、3週間ほどで亡くなりました。
 二人とも、老いていく姿を見せぬまま、儚くなってしまったわけです。

 したがって徐々に老いていく姿を見るのは、義母が初めてです。

 私は早くも、やがて訪れるであろう自らの老いを考えざるを得なくなりました。

 同居人と二人で老いていくのだとしても、必ずどちらかが先に亡くなり、一人は取り残されます。
 一緒に亡くなることがあるとしたら、それは不慮の事故とか、不幸な理由であるに違いありません。
 そう思うと、同居人よりも一秒でも先に死にたいと思います。
 老いてからの一人暮らしは想像するだに怖ろしいことです。

 その最後の瞬間まで、私たちの熾火は燃え続けているでしょうか。
 燃え続けてほしいと、切に願います。