選ばれてあることの恍惚と不安、二つ我にあり。
ヴェルレーヌの言葉です。
太宰治が小説に引用して人々の知るところとなりました。
私はこの言葉に軽い嫉妬を覚えつつ、憧れも感じます。
恍惚と不安を感じるほどの自負とはどこから出てくるのでしょうね。
十で神童十五で才子二十過ぎればただの人ということわざがあります。
幼い頃、多くの子供が才能豊かに見えるのはよくあることです。
子供自身も、中二病というか、過剰な根拠の無い自信をもってまわりを馬鹿にしたりするものです。
私自身がそうでした。
私の場合、二十歳を過ぎてとうにただの人になっているのに、自分はひとかどの人物だと思い込んでいました。
愚かなことです。
精神障害を発症した36歳になってやっと、そんな自信は雲散霧消しました。
と言うか、ただの人ですら無くなり、精神障碍者になってしまったのだから、発病当初の悲嘆は、うつ状態であったことを差し引いても、ひどいものでした。
その後、良くなったり悪くなったりしながら、しかし螺旋階段を上がるように、快方に向かっていきました。
その時の私の目標は、平凡なただの人になること。
しかしそのただの人になることが当時は途轍もない困難であるように思いました。
それは今も続いています。
完全復帰して15年以上経ちますが、今も綱の上をふらふらしながら渡っているような気がしています。
いつ落ちてもおかしくないような。
このような心情が定年退職まで続くのか、あるいは退職しても続くのか、よく分かりません。
いずれにせよ、完治はあり得ないと医師から言われています。
寛解状態を保ち続けることが治療の主眼となります。
幸いにして、気分の変動はあり、何か月もひどく落ちることもありますが、休職に追い込まれるまでには至っていません。
自覚的にはともかく、医師に言わせれば寛解状態のようです。
それにしても普通にただの人であり続けるだけのことが、こんなにも苦しいものだとは、発病前の私には想像もできませんでした。