文学

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すっとこどっこい

学生の頃、近代文学概論という講義がありました。 てっきり夏目漱石・森鴎外あたりから後の文学を取り上げるのだとばかり思っていたら、思いっきり古く、仮名垣魯文でした。  ずっこけましたねぇ。  江戸後期から明治初期にかけて活躍した戯作者で、近代文学というより近世文学に近く、面食らった覚えがあります。 彼の作品に「西洋道中膝栗毛」という戯作があります。 「東海道中膝栗毛」で大活躍したやじさん、きたさんの孫がロンドン博覧会に出かけるという趣向で、戯作的滑稽さと、当時の日本人の西洋文明への憧れをくすぐって、たいそうなベストセラーになったようです。 仮名垣魯文本人に洋行の経験はなかったそうですが、見てきたような嘘を書き連ねるのが戯作だとしたら、戯作の王道とも言えましょう。 孫たちも爺さん二人に負けず劣らず間抜けで、笑わせます。 近代文学概論といういかめしい名前の講義ですが、抱腹絶倒でした。 江戸っ子というものは、どうしてああすっとこどっこいで騙されやすく、けんかっ早いのでしょうねぇ。 江戸落語に出てくる人物もたいていすっとこどっこいです。 少々まともと思われる長屋の大家さんも、やっぱり抜けています...
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妄想

森鴎外は、学生であった自分、国費留学生であった自分、軍医として勤務する軍人である自分を振り返って、役者のようである、と短編「妄想」に書いています。  自分のしてゐる事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めてゐるに過ぎないやうに感ぜられる。(中略) 赤く黒く塗られてゐる顔をいつか洗つて、一寸舞台から降りて、静かに自分といふものを考へて見たい、背後(うしろ)の何物かの面目を覗(のぞ)いて見たいと思ひ思ひしながら、舞台監督の鞭(むち)を背中に受けて、役から役を勤め続けてゐる。 なるほど、それはそうかもしれません。 確かな自分が今の自分以外にあって、今の自分は役を演じているに過ぎないと考えることは、今の自分を慰めるよすがにはなるでしょう。 しかし鴎外先生のような大作家にそんなこと言われちゃ我々小市民はやってられませんねぇ。 それになんだか今の自分のだらしなさを言い訳するような卑怯な感じもします。 ああしてこうしてこうなった、その上に自分がいる以上、がたがた言わずに引き受ける他ありますまい。 私は3歳で幼稚園に入園してから今日までの約40年、役者というよりは囚人のような気分がして仕方ありません。 囚人...
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辞世

自殺するわけじゃありません。  先人の辞世をいくつかみてみようというのです。  残念ながら。  わが国には、武士や文人が亡くなる際、辞世と称して和歌や俳句、漢詩を残す風習がありますね。 多くは事前に辞世を用意しておいて、いよいよと言う時それをしたためたり、口頭で伝えたりしたものと思われます。 辞世というのは建前上は死の直前の心境を表したものですが、意外なほど建前ではなく、その人の人となりを示しているように思います。 ここに特に有名な辞世を見てみましょう。身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂  吉田松陰言わずと知れた幕末の志士、吉田松陰の和歌です。外国に密航しようとしたことがばれて捕えられ、江戸で刑死します。無念のなかにも、強い意志が感じられます。この人が明治維新を生き抜いたら、どれほどの大人物になったのでしょうね。あまりに情が強くて、ちょっと気味が悪いですが、少しずつ、軽いものを見ていきましょう。おもしろき こともなき世を おもしろく 高杉晋作 引き続き幕末の志士です。 吉田松陰に比べて、ずいぶん軽くなりました。 そう言えば菅前総理、高杉晋作がお好きだとかで、奇兵...
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銀齢の果て

御大、筒井康隆の平成18年の作品「銀齢の果て」を読みました。 私は中高生の頃、ツツイストを自認するほど御大の小説を愛読しましたが、大阪と東京の戦争を描いた「東海道戦争」や、ベトナム戦争の観戦を企画する「ベトナム観光公社」などのブラック・ユーモアあふれる作品から、「虚人たち」や「虚航船団」など、純文学志向の実験的な作風へと変化するにつれ、あまり読まなくなってしまいました。 実験的な作品が増えてからでは、退職した元大学教授の心象風景を描いた「敵」という作品がお気に入りです。 で、今回の「銀齢の果て」、内容は少子高齢化が極端に進んだ近未来、70歳以上の老人同士殺し合いをさせるという相互処刑制度が施行され、ある町で起こる老人たちの殺し合いをユーモラスに、またドタバタ調で描いた作品で、やや先祖がえりした感のある作品です。 しかし、若い頃のような疾走するスピード感、鬼面人を驚かす趣向は感じられず、御大の筆の衰えはいかんともなしがたいところです。 映画「バトル・ロワイヤル」では、中学生同士が国家の命令で殺し合いをさせられていましたが、むしろ老人同士の殺し合いのほうが説得力があり、命の国家管理という、...
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モンスターフルーツの熟れる時

私は当代の小説家では、小林恭二を最も偏愛しています。 「電話男」でのデヴュー以来、奇抜でエキセントリックでどこか切ない物語世界を紡ぎだしてきました。 中でも、「モンスターフルーツの熟れる時」は、ある到達点に達しているものと思われます。 渋谷猿楽町を舞台に、めったやたらに性交を繰り返す女や、妖しげな店を経営する女など、4つの物語が同時並行的に語られます。 やがてその4人は幼馴染であり、子ども時代に「わたし」が交わしたある約束を実現するため、ある者は霊となって、またある者は美を実現した女神となって、「わたし」の下に集います。 彼らは言わば、「わたし」の使徒。 そして「わたし」が約束した将来の夢とは、破壊の王になること。 破壊の王となって、ヒトラーですら成し遂げられなかった、「我々は世界を焼き尽くす」という夢を実現すること。 ここに、大人に成りきれないモラトリアム人間の悲哀を見るのは、うがち過ぎでしょうか。 その夢は、プロ野球選手になりたい、とか、宇宙飛行士になりたいとかいう、少年の日の戯言に過ぎません。 しかし「わたし」は、大真面目に、その野望を果たそうとするのです。 絶対に実現不可能な夢...
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