文学

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諦め

昨夜、NHKの日曜美術館の上村松園の特集番組で、彼女が使っていた絵の具が紹介されていました。 強烈な赤の絵の具を見て、ふいに、ある歌を思い出しました。 ちょうど、プルーストが紅茶にひたしたマドレーヌを食べて、はるか昔の記憶を鮮烈に呼び起されて、「失われた時を求めて」を書き始めたように。  草わかば  色鉛筆の赤き粉の  ちるがいとしく  寝て削るなり 北原白秋の歌です。 私はこれに13歳のときに初めて接し、自分は決して歌を詠むまい、と決めたのでした。 この歌に感銘を受けながら、同時にこのようなレベルの歌を詠む才は自分にはないことを、思い知らされたのです。  同じように、17歳の時に村上春樹の「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」を読んで、自分が小説を書く意味はないな、と思いました。 こんな小説を書く人がいるのに、自分がくだらぬものを書いても仕方ない、と思いました。 しかし13歳の時との違いは、書くまい、と決めはしなかったことです。 それでくだらぬものを書いては出版社に送るということをして、二冊、世に問いましたが、ほぼ黙殺されました。 17歳のときの直感は当たっていたことになります...
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笛吹き男

グリム兄弟の「ハーメルンの笛吹き男」の話は、子どもの頃に一度は聞きかじり、恐怖に震えたのではないでしょうか。 聖ヨハネ祭の頃、ネズミの大量発生に困っていた村に派手で大きな笛吹き男が現れ、報酬をもらえるならネズミを退治してあげよう、と言い、笛を吹くと村中のネズミが男の後をついていき、川で溺死します。 ところが村人が報酬を支払わなかったところ、翌年の聖ヨハネ祭の日に村に現れて笛を吹くと、村中の子どもたち130人が笛吹き男の後をついていき、二度と戻らなかった、というお話しです。  じつはつい最近までハーメルンでは、この事件が起きたとされる西暦1284年を元年とする暦を使う風習があったそうです。 多分子どもが大量に消えたことは歴史的事実だろう、と多くの研究者が憶測をたくましくしています。 遭難説、戦死説、東方植民説、舞踏病説、など。 私が興味をそそられたのは、当時ヨーロッパで広く知られていたという舞踏病説です。 これはお祭りのときなどに大勢で踊っていると、子どもや若者などが熱狂して忘我状態になり、倒れるまで(ひどい時は死ぬまで)踊り続けたというものです。 聖ヨハネ祭は夜に火をたいて踊ると言いま...
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比率

村上春樹の鼠三部作で、鼠は趣味で小説を書いています。 小説の流儀は、人が死なないことと、セックス描写がないこと。 それに比べて私は、文学作品はともかく、映像作品については、むやみに人が死んだりセックスしたりする映画やVシネマを好んで観ています。 なぜでしょうね。 家ではゴキブリが出ても殺害できず、逃げ回っているというのに。 そこで、殺人の話。 殺人事件について研究しているある学者が、精神病の専門雑誌に面白いことを書いていました。 どの国、どの文化にも共通しているのは、20歳代前半の男性が男性を殺害するケースが極端に多く、女性が女性を殺害する事件は極めて少ないそうです。 ところが、ここ20年ばかり、わが国においては20歳代前半の殺人犯が明らかに減ってきており、これは他の先進国にも、また発展途上国にも見られない現象だそうです。  20歳代前半の男といえば、動物でいうと巣立ちしてメスを求める頃合いでしょうか。 血気盛んで喧嘩っ早い世代だということは容易に想像できます。 洋の東西を問わず、この世代は暴力的になりやすいのですね。 テロの実行犯なんかもこの世代が多いようです。 不思議なのは、日本で...
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保険証が更新されて、新たに臓器提供をするかどうかを記載する欄が設けられ、私は提供しない、と意思表示しました。 わが国では亡くなることを息を引き取るとも言い、文字どおり呼吸が停止して、通夜をやって告別式をやって、なお蘇らなければ火葬して、それでも四十九日を迎えるまでは、この世とあの世の中間である中有の闇を彷徨って、やっと死の儀礼を終え、死んだことになるのでした。 死ぬのではなく、死に行くものでした。 ある瞬間を境に生が突然死に替わるのではなく、少しずつ衰弱し、息が弱くなり、息を引き取るのです。 「いくら息をしようと思ってもできなくなってしまう。どうしたらいいでしょう。ほら、いくらしようと思っても・・・」 そういううちにも幾度も息がとまりかける、一所懸命力をいれて吸いこもうとするのだが。  「誰か教えてくださらないかしらん。どうしても息ができなくなってしまう」 しまいにはうかされたように、 「誰か息をこしらえてちょうだい」 といった。 これは、中勘助の「妹の死」にみられる、23歳で世を去った妹の死を見取る場面です。 凄絶な臨終の場面です。   息は、生き物のいきであり、生きるのいきであり、...
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月光

此の歌即ち是如来の真の形体なり。 されば一首詠み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。 我此の歌によりて法を得ることあり。 もしここに至らずして妄(みだ)りに人此の道を学ばば、邪路に入るべし。 上記は、「明恵上人伝記」に見られる、西行法師の言葉です。 歌を詠むことを仏道修行と考え、仏像を彫るごとく歌を詠む、という覚悟のほどが示されていますが、少々カッコつけな感じがしますね。  月を見て 心浮かれし いにしへの 秋にもさらに めぐり逢ひぬる独り草庵で月を見ていて、出家前の、月に浮かれた頃を思い出して感慨にふける歌と見えます。 西行法師らしい感傷が感じられます。 なにごとも 変はりのみゆく世の中に おなじかげにて すめる月かな こちらも月。 何事も変化してやまないのに、太古から変わらず美しい光を放つ澄んだ月を賞賛しています。 ゆくへなく 月に心のすみすみて 果てはいかにか ならむとすらむ またまた月。 こんなに月光に心奪われて、自分はどうなってしまうんだろう、と嘆いています。 自由奔放な歌で、西行法師以前には見られなかった歌風ですね。 心なき 身に...
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