文学

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冥途の寒さ

今朝は馬鹿に冷えました。 冬を迎えたことを実感させられます。 そういえば通勤の車を運転していても、いつもより車が多いように感じました。 忙しい季節なのでしょうねぇ。 私はと言えば、なんだか気をもむことは多かれど、それほど忙しいとは感じていません。  最近はまっている久保田万太郎の冬の句をいくつか。 粥喰うて 冥途の寒さ 思ひけり 粥を食うことなどほとんどありませんが、冥途の寒さを思うはんて、不気味な迫力があります。 そこはかとなく漂う厭世的な感じがよろしいようで。 飲みくちの かはりし酒よ 冬籠 冬に自宅で籠っていれば、酒の味が変わるのも当然でしょう。 これをかはりし、として、うましとしないところにこの人の真骨頂があるのでしょうね。 炭つぐや 雪になる日の ものおもひ これから雪が降ろうという日に暖房の炭を入れているのでしょうね。 今はエアコンのボタンを押すだけですから、気楽なものです。 もっとも私の実家はお寺で、古い建物だったせいか、冬は底冷えがし、エアコンはもっぱら冷房用で、暖房には石油ストーブを使っていました。 チュルチュルポンプで灯油を入れるのがひどく億劫だったことを思い出しま...
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熱燗や

12月に入ったというのに、今日は暖かい雨が降り続いています。 異常気象というのではないのでしょうが、なんだか調子が狂います。 まぁ、寒いよりはよほどマシですが。 近頃晩は熱燗で暖を取っていますが、今日は冷でもいいようです。 熱燗や とかくに胸の わだかまり 久保田万太郎の句です。久保田万太郎の俳句成瀬 桜桃子ふらんす堂俳句の天才―久保田万太郎小島 政二郎彌生書房 胸にわだかまりを持ちながら熱燗を頂くといえば、それは私の日常とも言うべきですが、そのわだかまりがいかほどのものかは、日によってずいぶん異なります。 幸いにして、このところの私は精神も安定し、さほど強いわだかまりをもって熱燗に助けを求めることもなくなりました。 精神安定のために飲む酒は、その時は一時的にまぎれても、翌朝かえって落ちているということはよくあります。 それに比べて単に一日の仕事の疲れを癒す燗酒は、すぐに体中を駆け巡り、じきにねむくなってしまいます。 わずかの酒で酔えるのは、健康な精神を維持せしめている証拠かもしれませんねぇ。 緊張に満ちた精神状態では、いくら飲んでも頭の芯が冴えているような感じで、酔えませんから。 い...
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ねじ

午前中、スバル・インプレッサ2.0Sの六ヶ月点検に行ってきました。 悪いところはありませんでしたが、なんとタイヤにねじが刺さっていたとのこと。 メカニックが言うには、ねじの状態が新しく、空気も抜けていないことから、ここ数日の間に刺さったと思われる、とのこと。 私が思わず、「いったいどこで?」と絶句すると、メカニックは何事も無かったかのように、「路上には色々なものが落ちていますから」と、涼しい顔です。 そこで私は不思議な感覚に捕らわれました。 高校生の頃読んだ漫画、つげ義春の「ねじ式」の世界に飛んだのです。ねじ式 (小学館文庫)つげ 義春小学館 ちょっとしたことをきっかけに、連想ゲームのように奇妙な世界に飛んでしまうのは私の悪い癖で、しかしほんの数秒で元に戻るからこれまで事なきを得ています。 いつか長時間飛んでしまうのではないかと心配です。 つげ義春の漫画の常で、「ねじ式」も極私的で、不条理で、どこか切ない、漫画というより詩編に近いものです。 久しぶりにつげ義春の作品群に接してみたくなりました。にほんブログ村 本・書籍 ブログランキングへ
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秋雨

今朝はひどい雨で、通勤の車から見る街はけむって見えました。 気温も低いし、よっぽど休んでしまおうかと思いましたが、気を取り直して無事出勤いたしました。 白露の 色はひとつを いかにして 秋の木の葉を ちぢに染むらむ 古今和歌集にみられる藤原敏行の歌です。新版 古今和歌集 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)高田 祐彦角川学芸出版 雨の色は一つなのにどうして秋の木の葉をこのように様々な色に染めるのだろうという、色彩感覚豊かな幻想的な歌ですね。 車から見る秋の木の葉に、このような幻想を見ることも無い無粋な私ですが、雨をただ鬱陶しいと思わず、それもまた秋の風情と思えば、少しは慰めにもなりましょうか。 傘もささず、ずぶぬれになりながら、しかもゆっくり歩いているサラリーマンを見かけました。 彼は何を想い、あるいは無念無想であのように濡れながら平気な顔そいてあるいていたのでしょうね。 不思議な光景でした。 あるいは件のサラリーマン、この世の者ではないのかもしれません。 ずぶれて犬ころ 24歳で早世した自由律俳人、住宅顕信の句です。ずぶぬれて犬ころ住宅 顕信,松林 誠中央公論新社 この人はあまたの時に...
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物語の真実

時折、なんということもなく、来し方を思い、また今の状況を考え、憂いを帯びることがあります。 中年なればこそ、若い日の愚行は、愚かゆえに懐かしくも感じるもの。 しかし40代半ばの今も、愚行を繰り返して生きていることに変わりはありません。 ただ、愚かさの上に常識の仮面をまとっただけのこと。 時間というのは不思議なもので、確かに起きたことなのに、あらゆる事実が歪められ、あるいは誇張され、また、忘れ去られていきます。 だからこそ歴史学なる学問が生まれ、歴史学者は考古遺物や古い文書などを手掛かりに、昔の姿を再現しようと努めるのでしょう。 しかし、それが確かにそうだったかどうかなんて、分かるはずもありません。 なんとなれば、私たちは半日前のことですら、精確に再現することは出来ないからです。 最近朝日新聞が、従軍慰安婦は旧軍が組織的・強制的に行ったものだとする30年も前の記事を訂正しました。 そういう事実はなかった、あるいはあったかもしれないが確たる証拠はない、と。 その一事をもってしても、過去、この世で行われたことを精確に知ることはできないと得心がいくでしょう。 ゆえに私は、繰り返し、真実は物語の...
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