文学

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美の仙人

職場の庭に植えられた紅梅が、見事に咲いているのに気付きました。 満開になるまで気付かないとは、我ながら迂闊です。 平安期に桜が好まれるようになり、江戸時代以降は花見といえば桜と定まりましたが、古く、奈良時代頃には、花といえば梅を指したと伝えられるほど、梅はわが国の人々に愛好されてきました。 早春、凛列たる空気の中、可憐に咲く様が人々の心をとらえたのでしょう。 また、桜よりもはるかに長く楽しめる点もよろしかろうと思います。 桜には狂気が似合うのと対照的に、梅には落ち着いた風情があります。 桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿、という言葉があるほど、梅は剪定に強く、生命力の強さを象徴してもいるのでしょう。 桜が咲くと、私の心はざわつきますが、梅の場合そういうことはありません。 梅を詠った詩歌は数知れませんが、私は何度かこのブログで紹介した与謝蕪村の句をもって嚆矢とします。 白梅(しらうめ)に 明くる夜ばかりと なりにけり というものです。 臨終の床にあって、あの世は愛する白梅が毎朝咲く夢のような世界なのだろう、と詠んでいるわけです。 桃源郷を端的に表すのに白梅を使うあたり、その心性がよくわかります。 ...
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妖かし

春は来ぬ。 空気凛冽なれども、春の気配濃厚たり。 我、この気配に接し、心躍ることなし。 ただ、春の気配を怖れるのみ。 そは、春の魔にして、人をして狂わせ、憂愁に沈めるのみ。 春は狂気を孕み、我、その瘴気にあてられざる能わず。 古人、多く春を怖れるあり。   春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる かくのごとき和歌、生まれざるを得ざる所以のものは、ひとえに春を怖れたるなり。 わけても春の宵闇に隠れいたるは何者か。 化け物か、妖気孕む者か。 我、定かならずといえど、そを感じること甚だし。 妖気に接し、我、不思議の心地して、我が身が変貌すを感得したり。 何者に変貌したるか。 そを表す言葉を知らず。 ただ妖かしの者に近づきたるを覚えるのみ。 我、もはや人たることに耐えざるや。 いっそこの世ならぬ者に変じ、春の瘴気を生み出す元となりたるか。 我が変貌したる姿、ザムザのごとき醜い虫に非ず。 毒を隠し持つ、しかれども天女のごとき美しき魔物に他ならず。 ザムザのごとく野垂れ死にの憂き目にあうこともなし。 春来たりなば宵闇に紛れ、瘴気を吐かむと欲す。 瘴気は毒に変じ、春の宵を包みこむ...
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悪を描く

坂東三津五郎が59歳の若さで帰らぬ人となってしまいました。 たしか中村勘三郎もそのくらいの年齢で亡くなったと記憶しています。 当代の人気役者だけに残念ですねぇ。 私は一時期歌舞伎に凝り、わけても尾上菊五郎が贔屓でした。 顔よし、声よし、姿よし、と謳われていましたが、わりと小柄でしたね。 しかし江戸っ子の典型的なスタイルは小柄でやせ形ですから、それもまた売りだったのだろうと思います。 菊五郎の「弁天小僧」は私が最も好む演目で、お嬢様に化けて呉服屋に入り、イチャモンをつけて金をゆすり取ろうとしたところ、男とばれて、急に大きな伸びをし、着物を脱いで見得を切る場面は歌舞伎屈指の見せ場でしょう。 歌舞伎の本質は人間だれもが持つ悪を描くことにあろうかと思います。 善人だったやつがちょっとしたきっかけで悪に落ちたり、あるいは信頼しあった義兄弟を裏切ったり。悪への招待状―幕末・黙阿弥歌舞伎の愉しみ (集英社新書)小林 恭二集英社 それを流麗で耳心地の良い江戸弁でやるのだからたまりません。 坂東三津五郎は端正な芸風で知られ、私はもう少し崩れているほうがお好みですが、現代劇をも器用にこなす、役者以外の仕事...
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遊園地

色川武大の短編に、「少女たち」という佳品があります。 「離婚」という短編集で読むことができます。離婚色川 武大文藝春秋 この小説では、訳ありの少女たちと共同生活を送る男が描かれますが、共同生活は終りを告げることになります。 それを惜しむ少女たちに、男は一言、「もう遊園地は終り」と宣言します。 少女たちとの幻想的とも言える現実離れした生活とその終りを描いて、少女たちの成長の物語とも、男の孤独を表す物語とも読める、切なくも美しい作品でした。 今夜、私は日本橋人形町の懐石の店で、15年来の付き合いになる女友達2人と一杯やる予定になっています。 一応、遅い新年会ということで。 今思えば、15年前、私が激務を強いられる職場で耐えられたのは、この2人を始めとして、多くの気の合う同僚に恵まれたからだろうと思っています。 激務の合間に飲みに行ったりカラオケに行ったり。 私は行きませんでしたが、スキーなんかにもグループで行っていたようです。 地獄の中の小さな遊園地のようでした。 1人は都内に1LDKのマンションを購入して一人暮らし。 もう1人は長いこと内縁関係にある男と暮らし、未だに籍を入れようとしませ...
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桜の樹の下

昨日、今日と、馬鹿に暖かい日が続きます。 私が執務する部屋は西陽があたるので、午後は暖房いらずです。 こんな風に、寒い日があったかと思うと暖かい日が訪れて、少しずつ、春になっていくのですね。 今年は梅が遅いようで、まだ咲きませんが、この調子なら、梅ももうじきでしょう。 わが国では季節感を大切にする文化が育まれ、手紙では必ず時候の挨拶を文頭に置きますし、女性の着物などでは季節を表す柄が入っている場合、その季節にしか着用することができません。 俳句では自由律でないかぎり季語を入れるのが約束になっていますね。 四季の変化が劇的であればこそ、このような文化が生まれたのでしょう。 北国の人はまた異なるのでしょうが、ひと冬中ほとんど晴れている太平洋側で生まれ育った私には、春は待ち遠しいようで、どこか寂しい季節です。 春の愁いについては、このブログでもたびたび指摘してきました。 その愁いがどこから来るのかは分りません。 しかし例えば、桜の樹の下には死体が埋まっている、と喝破した梶井基次郎の「櫻の樹の下には」のように、美の裏には不気味な死、穢れとしての死が存在するという予感を、多くの日本人が共有し、そ...
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