思想・学問

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常不軽(じょうふきょう)

法華経の中に、常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)という章があります。 法華経は大部の経典で、さまざまな、品つまり章立てがなされています。法華経〈上〉 (岩波文庫)坂本 幸男,岩本 裕岩波書店法華経〈中〉 (岩波文庫)坂本 幸男,岩本 裕岩波書店法華経〈下〉 (岩波文庫 青 304-3)坂本 幸男,岩本 裕岩波書店 火宅、つまり火事になっているのに気付かず、燃え盛る家で遊んでいる子供をとおして、人類の在り様を描いた譬喩品や、観音様の力の偉大さを描いた観世音菩薩普門品などは、なんとなく知っているという人が多いのではないかと思います。 で、常不軽菩薩品。 これは不思議な話です。 常不軽菩薩は、特段仏典を勉強するわけでもなく、ただひたすら、誰に対しても、「私はあなたを決して軽んじない、あなたは、菩薩としての修行を行ないなさい。あたながたは、正しく完全に覚った尊敬されるべき如来になるでありましょう」  と言い続け、時には逆にバカにされたと感じて怒り出す人もいるなか、ひたすらそれを言い続けるのです。 私は仏教を完全に独学で学びましたので、この品の正しい理解をしているとは思っていません。 しか...
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今、ここ

金曜日のお昼休みを迎えました。 あと半日でお休み。 でも週末の天気はあまりよろしくないようです。 先週は田原町から浅草あたりを散歩しました。 その記憶は鮮明です。 しかし、時間は存在しない、という説を唱える人がいます。 つまり、人は常に、今、ここにしか存在し得ず、過去は過ぎ去っており、未来は想像しかできないので、過去も未来も、今、ここには存在せず、しかも人は今、ここにしか存在し得ないゆえに、過去も未来も無く、あるのは変化だけだ、という、屁理屈みたいなものです。 しかし変化があるということ、しかも常に変化し続けるのが現世である以上、変化こそが時間の正体であり、諸行無常と言うとおり、変化こそがこの世の本質だと思えば、時間が存在しない、とは言えないような気がします。 言えるとしたら、時間旅行は不可能(今の人間の能力では)ということだけなのではないでしょうか。 こんな思考を職場の昼休みに繰り広げるというのも、月曜日から金曜日まで出勤し、土日は休むという、ある種円環的な時間のなかで生きる私にとって、週末というのはその円環の区切りであるからかもしれません。 しかし、時間は、一日一日の繰り返し、一週...
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バッドトリップしかしないドラッグ

またもや辛い一週間が始まりました。 つい、なんで生きているのかな、という青臭い思いが頭をもたげます。 誰にも答えられない問いではありましょうけれど。 抹香臭い坊さんならば、仏教を学んで修行して、生きる意味を知りましょう、と答えるかもしれません。 バタ臭い西洋坊主なら、神の愛と天国を信じて今を生きましょうと答えるかもしれません。 いずれも、心を打ちません。 宗教では、この問いに答えることは出来ません。 答えたとしても、信仰を持たない者にとっては無意味です。 一つ言えるのは、金銭欲や出世欲、名誉欲を満足せしめようとしても、空しいばかりだということです。 欲望は際限がないので、いくらお金持ちになったところで、もっと欲しいと思うだけでしょう。 もちろん、食うに困るほど貧乏では、怖ろしく不幸でしょうけれど。 無ければ欲しいと思い、あればもっと欲しい、あるいは失うのが怖いと思うのがお金というもので、じつに厄介です。 もちろん私はお金が無い者の常で、お金持ちになれば人生面白おかしく生きられ、なぜ生きるのか、なんてくだらないことに悩まなくなるんじゃないかなと、考えている段階です。 しかし考えてみれば、...
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隠遁への願望

秋もずいぶん深まって、今日は初冬の寒さです。 なんとなく、寂しい季節ですね。 叶わぬ夢と知ってはいますが、秋も深まってくると、隠遁への願望が心中深く湧き起ってきます。 俗にして髪なし、と半隠遁の旅の姿を自嘲したのは松尾芭蕉でしたか。 沙門にもあらず、俗人にもあらずとおのれを述べたのは、禅坊主でありながら和歌や漢詩、書をたしなんだ良寛でした。 宗教者というより芸術家ですね。 鴨長明も西行も、出家して隠遁しながら、精力的に芸術的活動にいそしみました。 秋は、私をしてこれら隠遁者、宗教者の仮面を被った芸術家の生き方に、憧れを抱かしめるに十分な力を持っているようです。 しかし、私はしがないサラリーマン。 出家して隠遁しながら芸術的活動に励むなど、夢のまた夢です。 それは路上生活者にまっすぐに堕ちていく道でしかありません。 せめては定年後の隠遁生活に希望を持って、まだ長い現役生活を乗り切るしかありません。 もし十分な蓄えがあれば、隠遁できるのに。にほんブログ村 人気ブログランキングへ
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嘘八百、あるいは芝居

平凡な毎日をおくるなかでは、ひどい悪や、素晴らしい美を経験することはほとんどありません。 日常生活が退屈な所以と言えるでしょう。 日々を平凡に生きていると、素晴らしい美的体験や、逆に反吐が出るほどひどい悪に巡り合いたいという極端な欲求を持つことがあります。 それが、グロテスクなホラー映画や、美的な芸術を鑑賞したいという欲求に繋がるのでしょう。 たびたび指摘したことですが、私は、真実は嘘八百の中にしか存在し得ない、という予感を強く持っています。 自然科学はこの世の在り様を解明することはできても、在り様の真実を突き止めることは出来ません。 人文科学にいたっては、ほとんど思考の遊びに堕しています。 私が学問を信じない所以のものです。 文学作品などの芸術の分野は、端から真実の探求を捨て去り、おのれの直感や霊感の命ずるままに、美しいと思うもの、あるいはある見方を提示する作品を生み出していると言えるでしょう。 逆説的ですが、真実の探求を捨て去ったからこそ、真実に近づくことが出来るのだろうと思います。 私の精神性は、そういった嘘八百の世界に強いシンパシーを感じるように出来ているようで、そのためか現実...
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