vita sexualis

文学

 私にとっての性的な事件は、誰でもそうだと思いますが、若い頃に集中しています。
 物心ついたとき、私にはすでに好きな子がいました。

 小学校1年生、7歳の頃です。

 その女の子とは気が合って、互いの家を訪問したりして、遊んでいました。
 遊ぶといっても、私は普通の男の子のように外を駆け回るのは好みませんでしたから、もっぱら家の中でおしゃべりをしたり、じゃれあったりして遊んでいたのです。
 お医者さんごっこなんかして、まだ役に立たないはずの幼い性器が勃起したりして、戸惑ったものです。
 じゃれあっている時に、なんとなく、口づけしたのですよねぇ。

 7歳というのはちょっと早いような気もしますが、「好色一代男」世之介は6歳で初体験を済ませていますから、私なんか可愛いものですねぇ。

 小学校4年生から6年生にかけて、私の心をときめかす女子は現れませんでした。
 しかし、私を困らせる女が登場しました。
 4年生のときに隣の席になり、なんとなく仲良くなったのですが、そのうち彼女はストーカーまがいの行為にでました。
 ラブレターをよこす、風邪で休めば花束をよこす、写真をくれ、と言ってくる。
 私は終始、無視し続けていました。
 なぜなら、興味なかったからです。
 しかし小学校卒業の時、私をかたどった学ランを着た人形と、女をかたどったセーラー服を着た人形を贈られたときはビビりました。
 呪いの人形に違いない、と思います。
 だらしないことに、その人形、今も捨てることができません。
 人形に悲劇がふりかかったら、私にも同様の悲劇が起こるような気がしてならないのです。

 中学・高校の頃は、やたらとホモのおじさんに声をかけられたり、痴漢にあったりしましたね。
 男の性欲は破壊されているのだな、と実感する日々でした。

 その間、私は女性に対し、不思議な自信を持つようになり、鬼畜な所業を繰り広げることになります。
 10代の私にとって、恋愛だとかデートだとかは面倒で、すぐに股を開く女を見分ける技法を磨いたのです。

 30前くらいまで、鬼畜であり続けました。
 しかし30になると急にそういうことが煩わしくなり、私はある特定の女性と同居するようになり、今にいたります。
 しかし彼女とは、もう何年も肉体関係はありません。
 もう腰ふるのが面倒くさくなっちゃったのですよねぇ。
  これは肉体の堕落というより、精神の堕弱。

 ドフトエフスキーは80歳を過ぎても現役だったとか。
 小説を書いていると昂奮してきていてもたってもいられなくなり、奥さんとことに及んだそうです。
 80歳を過ぎた奥さんの日記に、「昨夜の夫は激しかった」なんて書いてあるのですよ。

 ドフトエフスキーの爪の垢でも煎じて飲まなければいけませんねぇ。 

 4年ほど前、一時期、激しい躁状態になって、性風俗店に通い詰める、という馬鹿をやりました。
 しかし、気分安定剤のリーマスを飲むようになってから、そういうことはありません。

 これが私のvita sexualis なんでしょうねぇ。

 もっとも、50過ぎくらいに最後にひと花咲かせたくなっちゃって、恥をかく先輩方をたくさん見てきました。
 50過ぎれば私も諸先輩方のように、もうひと花咲かせたくなるんでしょうか。
 わかりませんねぇ。

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