現在、私が勤める研究機関に、エジプト人の研究者が長期滞在しています。
専門は日本近代史ですが、イスラム教徒であり、当然、豚も酒も口にしません。
しかし、素面ながらほろ酔いのような、おしゃべりで陽気で気さくな人です。
私が国際交流の事務を担当していることから、この人には懇意にしてもらい、先般、昼食を奢ってもらいました。
そこでは、職場ではあまり見せないイスラム教徒としての話を聞くことが出来ました。
イスラム教徒の聖典「コーラン」の解釈についてです。
「コーラン」を神「からの」言葉と解釈するか、神「の」言葉とするか、あるいは経典そものを「神とみなす」かによって、イスラム教徒同士で諍いが生じる、というのです。
「神そのもの」と見なせば、絶対服従しかありません。
神「の」言葉とみなした場合、神の思いを忖度することができます。
さらに進んで神「からの」言葉と見なせば、神と人を媒介する者が存在しなければならず、誰が媒介するかによって、その教えは変わってくる、というのです。
一般的に日本人は「コーラン」はマホメットを通じた「神からの」言葉だと思っています。
私もそう思っていました。
しかし彼らの間ではことはそう簡単ではないようです。
仏教が小乗仏教から大乗仏教へと深化する過程でその教えの根本は変わらないとしても、色々な宗派が出来、様相はずいぶん変わりました。
キリスト教もカソリックとプロテスタントに大きく分かれ、さらにはロシア正教、英国国教などなど、様々に別れました。
それと同様、イスラム教も長い年月を経て様々な宗派が生まれました。
「コーラン」はお経や聖書と比べて極めて短く、詩編の形態をとっているため、わりと気楽に読むことが出来ます。
私は学生時代に読みましたが、感想は「ふーん」というものでした。
要するに、そうかもしれないけど多分間違っている、というものです。
そんなことイスラム教徒の前では言いませんが。
しかしエジプトで日本近代史を学び、今では中東でも指折りの日本研究者となったイスラム教徒の話はエキサイティングなものでした。
私がイスラム教について取れる態度は微笑んで応えず、ただ尊重するだけのことです。