今日は土曜日ながら、忙しい日となりました。
朝7時に起きて朝湯。
休日の朝の風呂は格別です。
その後納豆とソーセージでたっぷりの白飯を摂りました。
10時からマンションの管理組合の理事会。
今年は運が悪いことに理事長になってしまいました。
くじ引きで。
理事会、すぐに終わるかと思ったら、12時半までかかってしまいました。
どこの世界もそうでしょうが、くだらないようで、実は重要な案件というものが存在します。
くじ引きの理事長ですから、理事長権限で強引に物事を進めるわけにはいきません。
まずは理事のみなさんの意見をよく聞いて、落としどころを探すことになります。
どうしても意見が合わない場合、継続審議でお茶を濁しました。
昼はマンションの目の前にある蕎麦屋で冷やしたぬきを食いました。
なかなかの美味ですが、蕎麦屋というのはどうにも慌ただしいものです。
食後の珈琲も飲めないのですから。
で、家に帰って愛飲のエメラルド・マウンテンの濃いやつを淹れ、熱々の珈琲でしばしカフェインで頭をしゃっきりさせました。
14時から床屋。
約90分。
さっぱりしました。
先ほど帰ってきて、本日2杯目の珈琲。
タバコをくゆらせながら、ゆっくりと飲みました。
こんな何気ない日常が、じつは脆くも崩れ去るものだということを、ロシアのウクライナ侵略が示しています。
また、戦争にならずとも、義母がそうであるように、老いとともに日常を奪っていくことも。
施設に入った義母は表情が乏しくなり、呆けたような顔を見せることが多くなりました。
まだよろよろながら歩けるのに車椅子を手放そうとせず、日中はほとんどテレビを観て過ごしているようです。
できれば歩く練習とかリハビリに励み、少しでも行動的な日常を取り戻してほしいのですが、こればかりは本人の意志しだい。
義母は何の楽しみもないと言って、涙を流したりします。
老人性のうつかもしれません。
80過ぎまで生きれば義母の気持ちが分かるのかもしれませんが、老いというのは千差万別。
個人差も大きいので、90を過ぎても元気な人もいれば、70代で認知症になってしまう人もいます。
私の老後、また、同居人の老後がどうなるのか、誰にも分かりません。
できれば同居人よりも一日でも早く死にたいと思います。
老いて独り取り残されるのは想像するだけで怖ろしいものです。
同居人に先立たれたら、私は生きる屍と化すでしょう。
それほど、私は彼女に依存しています。
人は必ず老い、死んでいくより他どうにもなりません。
この冷厳な事実を思う時、慄然とします。
義母の老いは、私たちに年を取るとはどういうことか、教えてくれます。
衰えた老人を嗤うことは簡単ですが、そこから何らかの教訓を読み取ることはなかなか難しいものです。
同居人は義母の我儘に振り回され、心身ともに疲れ果てています。
人の悪口を言わないところが同居人の美点でしたが、近頃は義母を悪く言うことが増えました。
私はただ、同居人の心情に寄りそうことしか出来ません。
老いていくということに恐怖しながらも、これを受け入れていくしかないのでしょうね。
しんどいことです。