日曜日の夕方。
毎週のことですが、憂鬱で仕方ありません。
サラリーマンなら誰でもそうだと思います。
労働というのは何よりも食うための収入を得ることが目的ですが、それによって社会への貢献だったり生きがいだったり、様々な動機付けがなされます。
我が国では、一般に労働は貴い行為であり、働くことは良いことだとされています。
それはそうなのかもしれませんが、私は大学生の頃から、働くことは卑しい行為だという考えが頭から抜けません。
毎日遊んで暮らすことのほうがより高貴な生活であるように思えてなりません。
洋の東西を問わず、昔の貴族は遊んでばかりで仕事なんかしていない人が多かったように思います。
貴族が貴いとは思いませんが、食うために働く、しかも起きている時間を圧倒的に長く労働に費やすという行為が、非人間的というより動物として間違っているような気がします。
食えさえすればその他の時間はだらだら過ごしている動物が多く、人間のように朝から晩まで働いているという生き物は他にいないんじゃないでしょうか。
一つには、人間は今だけを生きているのでは無いと言うこと。
過去の思い出に浸ったり、将来を考えて不安に陥ったりします。
すると未来の生活のために必要以上の収入を得ようとやっきになるわけです。
少なくとも私はそうです。
今日食う物があれば明日以降のことは知らん、という態度で生きられれば、楽だと思います。
しかし人間は、日々、将来のために稼ごうとすることをやめません。
そこが強欲で、卑しいことのように感じるのです。
そう考えるとニートという生き方は人間的であるように感じます。
今日と言う日を無為に過ごす。
それを毎日続ける。
ニートと呼ばれる人々は概ね親のスネを齧って生きていると思います。
そしてその親は必ず亡くなります。
その先のことをろくに考えもせずに日々を過ごすという考え方に、憧れみたいなものさえ感じます。
しかし私は生活の安定を求めて就職し、31年間も働いてしまいました。
その間、私はずうっと卑しい生き方をしているという感覚を抱き続けてきました。
では辞めてニートになれば良いではないかという声が聞こえてきそうですが、多くの人は夢を諦めてサラリーマンになります。
私もまた、ニートという夢を諦めて就職し、今日に至るわけです。
労働が卑しいという思い癖は、ただでさえ過酷な働くと言う行為の苦痛を倍加させる作用があるように思います。
今さら労働は貴いなんていう考え方にお宗旨替えすることは不可能です。
せめて労働の貴賤などということ、考えもせずに生きられれば楽だと思います。
これから定年まで、卑しい行為を続けなければならないかと思うとぞっとします。