月の満ち欠け

思想・学問映画


 暇に任せてネットフリックスで映画を観ました。
 「月の満ち欠け」です。









 この映画は、高校生の娘と妻を交通事故で失った男と、娘の輪廻転生をめぐる物語です。
 女子高生の名前は瑠璃。
 瑠璃は前世の記憶を持っています。
 瑠璃は前世での恋人に会いに行きたくて仕方ありません。
 7歳の頃瑠璃は多摩から高田馬場まで前世の記憶をたどって恋人がアルバイトをしていたレコード屋を一人で訪れています。
 そのことがあってから、両親から高校を卒業するまでは勝手に出かけてはならないと約束させられます。
 両親を深く愛していた瑠璃はそれを守りますが、高校卒業を待たずに交通事故で亡くなってしまうのです。

 傷心の男は東京から故郷、八戸に戻り、老いた母親と暮らし始めます。
 しかし男の傷が癒えることはありません。
 そこに瑠璃の恋人だったという男が現れますが、全く話が嚙み合いません。
 その男は、前世でも瑠璃と名乗っていた、前世の瑠璃に線香をあげにきたのです。
 
 月日が経って、亡くなった娘の友人と会うことになります。
 友人は娘を瑠璃と名付け、その瑠璃は前世、つまり男の娘の記憶を持っているのです。
 現世の瑠璃が元父親に会いたいと言ったことから、男を呼ぶのです。

 さらっと描かれていますが、重要なテーマです。

 古来、生まれ変わりは仏教だけでなく、西洋でもその事例が多く発見されています。
 もし生まれ変わりということが本当であったとすれば、死の概念は大きく変わることになります。
 死を天国に行ったり地獄に落ちたり、仏教で言えば往生を遂げたりと言ったことではない、しかし完全に無になるわけでも無い世界が私たちの眼前に浮かんでくるわけです。

 チベット仏教ではダライ・ラマの後継者はダライ・ラマの生まれ変わりの子供が選ばれます。
 そんなのはインチキだと言っても仕方のないことです。
 宗教上の不思議は、信じる人にとっては真実以外の何物でもないからです。

 輪廻転生を月が満ちたり欠けたりを繰り返す様に例えたタイトルですが、この世に繰り返しということはありません。
 何度同じようなことをしても、それは繰り返しではなく、新たな挑戦です。
 月が満ちたり欠けたりするのは、繰り返しているわけではなく、同じ満ち欠けはありません。
 少しづつ、しかし確実に前回の満ち欠けとは異なっていっています。
 輪廻転生も同じこと。
 繰り返しているようで、常に進んでいるのです。

 かつて三島由紀夫は「豊穣の海」全4巻きで、20歳で亡くなっては生まれ変わる者を描いています。
 第1巻で最初の男と同級だった男は、20歳、40歳、60歳、80歳と、身体の同じ所に黒子のある生まれ変わりを見続けています。
 ラストは理解しがたいものですが、文豪に手による流麗な物語は、読む者を圧倒します。
 第2巻においては仏教の唯識について、長々と言及がなされます。

 私は学生時代唯識にはまったことがあります。
 西洋の無意識と集合無意識に似ていますが、異なっています。
 高僧であった私の父でさえ、唯識だけは難しくてよく分からない、と言っていました。
 そんな小難しい哲学を私ごときが正確に理解することなどできませんが、人間や動植物のみならず、砂や石と言った一般に生命とは目されない物も含めて、すべての存在の底の底を激流のように流れる意識があると設定することは、誠にスリリングな思考の冒険と言えるでしょう。
 西洋で言う集合無意識はせいぜい人間だけのことです。
 その上にさらに深い意識を設定したのがキリスト教が生まれるはるか前の仏教であったとは驚きです。

 かつてヤスパースは「哲学入門」で、東洋ではついに哲学が生まれることは無かった、という意味のことを記述していますが、寝言は寝て言え、と思います。

 この映画を製作した人々が深く輪廻転生や唯識を意識していたのかどうかは分かりませんが、私にとっては若い頃親しんだ東洋哲学の一端を思い起こさせるのに十分なものでした。