文学

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美少年

昨日NHK-BSの歌舞伎の番組を観ていて、義経が見目麗しい美少年として描かれるようになったのは江戸時代からだと知りました。 たしかに、中尊寺に伝わる義経の肖像は、なんだかやせた髭面のおっさんです。  中尊寺に伝わる源義経公像です。 お世辞にも見目麗しいとは言えません。 それが江戸時代になると、途端に変ります。  歌川重清の浮世絵です。 こちらは陰間のような色気を漂わせていますね。 わが国では少年愛は、女色とならんで大人の男の当たり前の嗜みでした。 団鬼六の小説に、「美少年」という佳作があります。 団鬼六の小説は一般的な意味での官能小説とは一線を画しているものと思われます。 濃厚な性描写は少なく、心理描写などが巧みに描かれます。 「美少年」は、団鬼六の自伝的な作品で、学生時代、日本舞踊の有名な家で育った少年がいわゆる同性愛者で、団鬼六に惚れてしまい、色々と鎌をかけてきますが、団鬼六はあくまでも男同士の友人として接します。 そんな時、番長のような両性愛者の男子学生が、美少年を浚って縛り付け、女子学生2人を交えて美少年を犯し、美少年を縛ったまま、女子学生たちと乱交を楽しみます。 そんなことが...
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彼岸の入り

今日は彼岸の入りですね。 日本仏教独特のもので、彼岸(極楽浄土)を此岸(この世)から思い描く期間であり、善行を積むよう奨励されます。  一方、元は日願と書いて太陽を拝む期間だったとする説もあります。 どちらにしても、わが国民が大切にしてきた行事です。 正岡子規に、 毎年よ 彼岸の入りに 寒いのは という句があります。 なるほど、今日は冷たい雨が降り、寒いですね。  夏目漱石に「彼岸過迄」という小説がありますが、こちらはストーリーの内容と直接関係がありません。 高等遊民のおっさんと若い女と若い男がドロドロする恋愛小説で、私はあまり好きではありません。 いったい夏目漱石と言う人、「吾輩は猫である」、「坊ちゃん」と、ユーモアに富んだ乾いた名作で出発しながら、どういう心境の変化で「こころ」や三四郎三部作のような、暗くてつまらぬものを書き散らすようになったんでしょうね。 才能が泣くというものです。 彼岸にはおはぎを食う習慣がありますが、もう30年くらい口にしていません。 あんこでもち米を覆うというあの思想が許せないのですよ。 お腹一杯になって他のものが食えなくなるし。 正岡子規の寒い彼岸の入りよ...
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はるともしらぬ

もう三月も上旬を終えようと言うのに、外は冷たい雨が降っています。 今にも雪に変わりそうです。 寒いんだかあったかいんだかはっきりしろ、と言いたくなるような、日替わりで寒暖が入れ替わる日々が続いています。かきくらし 猶ふる雪の さむければ はるともしらぬ たにのうくひす 「金塊和歌集」の「春」にみられる源実朝の和歌です。 こう冷たい雨が降り続いていれば、谷の鶯どころか、事務所のおっさんでさえ、春とも知れません。  しかし春先に変に冷えるということはよくあって、だからこそ上のような歌が詠み継がれてきたのでしょう。 そうであれば、この寒さをも、春の風情と楽しむのが上策なんでしょうが、病み上がりの身には応えますねぇ。 源実朝という歌よみ、辛口で知られる正岡子規から高い評価を受けています。 実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存候。 べた褒めですね。 気持ち悪いくらい。 でもそういう優れた歌よみが、鎌倉幕府の将軍を継がなければならない立場だ...
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火垂るの墓

テレビをつければ震災から一年の特集番組ばかり。 気が滅入ります。 まぁ、見なきゃいいんでしょうけど。 昭和20年3月10日の東京大空襲は過去へと忘れ去られたようですね。 それでいいのです。 いつまでも過去にこだわっていては、人間生きていけませんから。 東京大空襲が主舞台ではありませんが、戦地ではなく、内地での悲劇を描いた作品として、「火垂るの墓」を想わずにはいられません。 神戸の空襲で寄る辺を失った14歳の少年と4歳の妹の哀れな最期を描いた作品で、野坂昭如独特の饒舌な文体が涙を誘います。 戦後7日目にして妹は衰弱死。 荼毘に付した後、兄はドロップ缶に妹の遺骨をいれて持ち歩きます。 しかし、駅のホームで寝泊まりする戦災孤児となった少年も衰弱死。 遺体を片付けようと駅員が少年のドロップ缶を放り投げると、それは草むらに落ち、無数の蛍がドロップ缶に群がったというのです。 切ないですねぇ。 国家が総力を挙げて戦っているとき、個人の幸不幸はどうでも良くなってしまうようです。  まして天変地異であればなおさら、1人1人の事情など関係なく、地震や津波は人を襲うでしょう。 スピッツのボーカルが、東日本大...
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最後の教育

安岡章太郎の自伝的作品に、「海辺(かいへん)の光景」という小説があります。 教育ママだった母親が認知症を患い、精神病院に入院。 主人公は母親の最期を看取るため、10日ほどその病室で精神的におかしくなった母親と過ごします。 父との不仲、母への愛憎が率直に語られ、胸を打つ作品に仕上がっています。 私が父を最期に見舞ったとき、もはや虫の息で、その翌日には亡くなってしまったわけで、あるいは父は私に対する最期の教育を怠ったのかもしれません。 苦しみ衰えていく怖ろしい姿を見せ、人は最期はこうやって苦痛にのたうちながら死んでいくのだ、という恐怖の、そして真実の教育を。 安岡章太郎の母親は恍惚の人となってしまったその姿を息子にあますところなく見せつけ、安岡章太郎は壊れいく母を見ながらどうすることも出来ない、という喪失を長く感じさせられ、人の死についての最期の授業を受けたと言えるのではないでしょうか。 それを受けて、息子はその母親の子供であるということだけですでに充分に償っているのではないだろうか?、と独語する主人公のやりきれなさには、涙を禁じえません。 ずいぶん前に読んだ小説ですが、鮮烈な印象を残して...
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