文学

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雪見

もう私が働く職場の庭では、梅がふくらんでいます。 それなのに今日は午後から雪になりました。 雪が降ると寒いですねぇ。 幸い積もることはなさそうです。 梅の花 それとも見えず 久方の 天霧る雪の なべて降れれば                                                    よみひとしらず 「古今和歌集」に見られる歌です。 春の雪で、梅の花が雪にまぎれてそれと分からない、という情景を詠んだ、寒々しいような、春が待ち遠しいような感じがよく出ていますねぇ。 手だれによる和歌と思われますが、よみひとしらずなんですねぇ。 では敬愛する蕪村先生は雪見をなんと詠んでいるでしょう? いざ雪見 容(かたちづくり)す 蓑と笠    与謝蕪村 蕪村は放浪の後、京都に居を構え、二度と旅に出ることはありませんでした。 芭蕉に比べ、軟弱な都会人だったのですねぇ。 さあ、雪見だ、といって重装備をする姿が、都会的と言えば都会的、大げさといえば大げさ。 京都ごときでそんなに降らないでしょうにねぇ。 どちらにしても、そこはかとないユーモアが漂います。 風狂の人の句ではありえませんねぇ...
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荒魂

石川淳の初期の長編に、「荒魂」という作品があります。 主人公佐太は、生まれた日は死んだ日だった、という紹介をされ、その破天荒な生きざまが綴られます。 化け物じみた生命力を持つ佐太は、口減らしのために生まれるとすぐにりんごの木の下に埋められてしまいますが、穴から這い出て大声で泣き叫びます。 父親はさらに頭を殴ってさらに深く埋めますが、やっぱり這い出てしまいます。 やむなく育てることにしましたが、姉二人を犯し、兄三人を召使のように使役し、父親は自分が元埋められていた場所に埋めてしまいます。 荒魂(あらみたま)は和魂(にぎみたま)と対をなす概念で、怖ろしい、荒ぶる神を表します。 佐太はこの後田舎を出て仲間を得、革命とも争乱ともつかない騒動に身を投じるのですが、果たして荒魂は佐太その人を指しているのでしょうか。 あるいは佐太の一派すべてを? この作品は石川淳お得意の現世的野心や神性に加え、現代風俗や経済問題などまで書き込み、べらぼうに面白い作品に仕上がっています。 しかし、「至福千年」や「紫苑物語」、「狂風記」に見られるような異常な緊張感とか、構成の妙に欠けるような気がします。 某文芸評論家は...
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悪魔祓い

悪魔祓いという儀式は、世界のあらゆる民族が今なお行っています。 カソリックのエクソシストはローマ教皇庁が正式に認めた神父しかなれず、悪魔祓い自体、ローマ教皇庁が悪魔憑きと認めない限り行ってはいけないことになっています。 ということは逆に言えば、ローマ教皇庁は悪魔憑きというものがごく稀にではあっても存在していると認めていることになります。 日本では狐憑きとか犬神憑きとかが有名ですね。 また、死霊や生霊に憑依されたとされてお祓いを受ける場面は、子ども向けのテレビ番組などで時折見かけます。 南太平洋の島々やアフリカなどでも、泡を吹いた人の周りで踊ったりして憑き物を落とそうとしている映像を見かけます。 精神医学では、おそらく統合失調症の重い症状と見なすのでしょうが、西洋医学の薬物でもお祓いでも、正常な状態に戻れれば方法なんかはどっちだって良いと思うでしょう。 韓国の自称牧師とその妻が、三人の子どもが風邪をこじらせて寝込んでいるのを、悪魔憑きだと判断し、悪魔祓いの儀式を始めたそうです。 自称牧師の父親は自ら断食し、幼い三人の子どもにも断食させ、ベルトで殴るなどの暴行を加えたそうです。 で、結果は...
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立春

今日は立春ですね。 よくニュース番組などで、お天気キャスターが「暦の上では今日から春です」なんて言っていますが、「暦の上では」は余計ですねぇ。 季節の移り変わりに暦も糞もありますまい。 気温が低くとも、濃厚な春の気配がすでにこの国を覆っています。 岩間とぢし 氷も今朝は とけそめて 苔のした水 道求むらむ 「新古今和歌集」に見られる西行法師の歌です。 岩の隙間を閉じ込めていた氷も解けて、苔の下の水は流れるべき道をさがしているのだろう、といったほどの意かと思います。 立春にふさわしい歌ですね。 じつは私は西行法師の和歌をあまり好みません。 奔放に過ぎて、しかもやや感傷に走るきらいがありますから。 きっと平安末期の歌壇では、熱狂的なファンがいる一方、一部からは毛嫌いされていたのではないかと想像します。 太宰治や石川啄木がそうであったように。 しかしこの歌は、瑞々しい春の訪れを思わせつつ、まだ凛とした冷たい空気をも感じさせて、好感が持てます。 私が住まいする千葉市でも、近頃は池にうっすらと氷が張ったりしていますが、それもそろそろ終わりでしょう。 筒井康隆の小説「敵」では、妻に先立たれた独り暮...
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「暁の寺」と唯識

三島由紀夫の遺作となった大作「豊饒の海」の第三巻、「暁の寺」には、長々と仏教唯識論についての言及があり、読むのが苦痛になるほどで、作品としての完成度を落としてまで、それに言及しなければならなかったのは、第四巻「天人五衰」を書きあげた直後に自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺をしたことを考え合わせると、示唆に富んだ作品です。 「豊饒の海」全4巻は、20歳という若さのピークで主人公が死を迎え、次の巻では前の巻の主人公が転生してまた20歳で死を迎え、という輪廻転生の物語になっています。 転生した者には同じ場所に独特の形をした黒子があり、第1巻の主人公の親友であった法律家がそれを認め、20歳での死を見届ける、という形式で物語は進みます。 つまり第1巻の主人公と同い年の法律家が80歳の時、ちょうど4人分の死を見届けるはずなのですが、ラストでは、そう簡単にはいきません。 三島由紀夫の美的でシニカルな作品群の中では、異色の作品です。 で、唯識。 五感の下にマナ識、と呼ばれる意識を設定します。 西洋心理学で言う無意識に近いものですが、もちろん同義ではありません。 マナ識は、おのれに執着する心です。 さらにその...
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