文学

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「高野聖」現代語訳?

かっくりげえっちゃいました。 WEB版で、泉鏡花の「高野聖」の現代語訳なるものが大枚300円の値をつけて売っていたのです。 お気は確か? 泉鏡花といったら、明治から昭和初期にかけて活躍した近代作家で、当然現代語で書かれているのですよ。 わが国の近代幻想文学の親分みたいな人で、文体は独特の流麗なもので、それを読むとほとんど生理的快感をすら覚えるような、美しい文章です。 で、WEB版の「高野聖」、購入はしませんでしたが、あらすじがHPに書いてあったので、読んでみると、要するに「高野聖」の抜け殻のようなもの。 この調子で現代語訳をしてあるのだとすれば、本物のビールが飲みたいのにノン・アルコール・ビールを頼んでしまったようなもの。                ↓      「高野聖」現代語訳の販売サイトです。 「高野聖」は高野山の一番下っ端の坊さんが、布教や勧進のため、全国を飛び回っているところ、飛騨の山中で謎の美女が住む家に一晩の宿を乞い、そこから美女の魔性に惑わされる様が、悪夢のような美しさで描き出される、幻想文学の名作です。 少々読みにくいと思っても、我慢して読んでいるうちに、必ず惹き...
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我もむかしの

職場復帰して1年3カ月。 淡々と日々を過ごすのは誠に平穏で、素晴らしい日々です。 しかし欲を持つのが人間。 物足りなくもあります。 こうしてただ生きていけば、平穏ではあるもののつまらなくもあり、先は見えています。 古人のほとんどがそうであるように、私もまた、老いて死に、冷たい石の下で忘れ去られていくのでしょう。 それはまた、私の望むところでもあります。 私がこの世に生きて在ったという痕跡をすべて洗い流して、時の流れとともに忘れ去られたい、という欲求は常に失うことがありません。 その一方、生きて在った印を、この世に永遠に残したい、という大それた欲求をも忘れられないのですから、私と言う者、つくづく因業に生まれついているものと見えます。 たれかまた 花橘に 思ひいでむ 我もむかしの 人となりなば 新古今和歌集に所収の藤原俊成の和歌です。 私もむかしの人になり忘れられれば、たちばなの花が咲いても誰も思いだしてくれないだろう、というほどの意味かと思います。 橘は夏に小さな花を咲かせるので、これは夏を詠んだ歌でもあります。 生命力が溢れ、しみじみとした風情が似合わない夏の歌に仮託して無常感を謳い上...
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TSF

わが国では、「ベルサイユのばら」だの「リボンの騎士」だの「転校生」だの、近いところでは新垣結衣と舘ひろしが入れ替わるドラマ「パパと娘の七日間」など、TSF(transsexual fantasy)と呼ばれる男女が入れ替わったり、女性が男性として活躍するお話がたくさんありますね。 TSFの本格的な物語の最初は、平安後期に成立したと伝えられる「とりかへばや物語」でしょう。 関白左大臣に男女一人づつ、子どもができます。 姫は活発で男らしい性格、若君は内気でおままごとなどを好む女性的な性格。 そんな二人の様子を見て、父関白はとりかへばや、と思いつき、姫を若君として、若君を姫君として育てることにします。 いたずらのようなこの方針、思いのほかうまくいって、若君は男として朝廷に出仕、出世街道をひた走ります。 姫君は姫君で、女として後宮に勤めます。 しかし、姫君は上司の女東宮に懸想してしまいます。 ついに、素性を明し、女東宮と通じてしまいます。 一方若君は、同僚の宰相中将に女であることを見破られたうえ関係を迫られ、彼の子を宿してしまいます。 本当ならこれで若君も姫君も身の破滅ですが、ここで二人は相諮り...
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いつちゆくらむ

私が住む街には、思いがけず雨が降りました。 このところ盛夏とは思えない涼しさで、しのぎやすいですね。 去年の猛暑が嘘のようです。 真夏、思いがけない冷たい雨が降ると、なにがなし、物思いに沈みます。 五月雨に 物思ひをれば 郭公 夜ふかくなきて いつちゆくらむ  紀友則  古今和歌集に見られる夏の歌です。 夏の雨の夜、物思いに沈んでいるとホトトギスが鳴いている、こんな夜中にどこへ行くのだろう、というほどの意かと思います。 おそらく、ホトトギスに自身を重ね合わせているのでしょうね。 真夏の夜のメランコリーといったところでしょうか。  真夏のメランコリーと言えば、 あの夏の 数かぎりなき そしてまた たった一つの 表情をせよ という、34歳の若さで事故死した歌人、小野茂樹の歌を思い起こします。 過ぎていったひと夏の思い出を追慕したものでしょうか。 その夏は彼にとって神聖なものであり、また、残酷にも二度と戻らない、儚い夢でもあるのでしょう。 その夏を持てたことは、若くして逝った彼にとって幸せなことだったでしょうか。 それとも、生に執着する悪因縁となったでしょうか。 今となっては、誰にもわかりま...
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老境にして

本宮哲郎という俳人がいます。 年はもう八十を超え、そろそろ枯淡の境地に遊ぼうかと言う頃あい。 しかし彼は、老境を迎えて、それまでの故郷を詠む牧歌的な句から、恋や色を艶やかに詠む句風に変じてきたのです。 行水の 女体ましろく 暮れてをり     恋の猫 月下の橋を 鳴きながら どちらも若い俳人の手になるものかと勘違いするような、瑞々しい異性への恋情を感じさせます。 80を過ぎてこの句境に達するとは、人間精神の運動とは不思議なものです。 花冷えや 土の粘つく 田靴脱ぐ   舟が着き 代掻牛の 降ろさるる   葱苗を 選ぶ地べたに 正座して   伐り口の 樹液 八月十五日   高稲架に 風の抜け穴 日本海 これらが、本宮哲郎の代表的な句です。 どれも田舎の百姓の日々を力強く詠んだものです。 それが、萩原朔太郎もかくやと思わせるような、虚とも実ともつかない、幻想的な美を謳いあげています。 あるいは、老境に至ったからこそ、何の衒いもなく幻想美を詠むことができたのでしょうか。  わが国の文人は、若い頃には気負って野心に満ちた大作を物そうと力みがちですが、年をとると力が抜けて枯れた良い味わいを醸し出...
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