文学

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げにも人は心がありてこそ

「馬小屋」を見ておもったのですが、人が他人を自在に操るというのは、非常な快感らしいですね。 そのために出世や権力の掌握を望むのでしょうから、人というものはどこまでも下品にできています。  また一方、生身の男や女との付き合いは面倒とばかり、二次元の世界に逃避したまま現実に帰ってこられなくなった輩もいるやに聞きます。  ダッチワイフというのも生身の女の代わりに女の人形を抱くもので、近頃では極めて精巧な人形が出回り、人形を抱えて車に乗る男をあるご婦人が目撃して、死体を運んでいると勘違いして警察に通報した、という笑えない話があります。 これなどはダッチワイフに人格を与えて恋しているといってよいでしょう。 はるか昔、西行法師が高野山での修行の最中、人恋しくてたまらず、死体を集めて人間を作る秘術を行った、という話が「撰集抄」に掲載されています。 この書物は西行法師の著作という触れ込みの贋作ですが、なかなか面白い本です。 人の姿には似侍りしかども、色も悪く、すべて心もなく無く侍りき。 声は有れど絃管声のごとし。 げにも人は心がありてこそは、声はとにもかくにもつかはるれ。 ただ声の出るべき計ごとばかり...
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寒い

大晦日の朝、非常に寒いですね。 季節がくればきちんと寒くなるんですね。 今年の夏の猛烈な暑さがなつかしいような。 でも夏になれば寒い冬が恋しくなるのだから欲張りなものです。去年今年(こぞことし) 貫く棒の 如きもの 大晦日といえば、高浜虚子のこの句がとどめをさすでしょう。 歳時記では新年の季語になっていますが、私の感覚では大晦日の深夜、新年を迎える直前のように思います。 俳句の範疇を超えた、一種の思想性を感じます。 貫く棒とは、真理とも、自然の摂理とも、また、人間の感情とも受け取れます。 貫く棒には年など関係ありませんものね。 しょせん人間が決めただけのもので、お天道様は元日だからといって特別強烈な光を与えるわけではありません。 私はただ、一般常識にしたがって、正月を祝うだけのことです。 今日の私と明日の私が断絶するはずもありません。 そして私は、おつむが少々いかれているので、今年を振り返って反省などしません。 その時その時に良かれと思って行動なり発言なりした結果が現在ですから、良いことも悪いこともすべてひっくるめて自己肯定するのです。虚子五句集 (上) (岩波文庫)高浜 虚子岩波書店...
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「敵」 筒井康隆

小沢議員が政治倫理審査会への出席を承諾したとか。 私にとってはどうでもいいニュースなんですが、権力闘争がお好きな民主党のお歴々には大変なことらしいです。 どんな小さな組織にも、派閥ができ、権力闘争が起きるとか。 不思議なことではありますが、ヒトという種の本能とも宿痾ともいべき特性なのでしょうね。 スポーツでも敵と戦う姿に観る者は酔いしれるわけですし、戦争映画やチャンバラが廃ることなく人気を集め続けているのもヒトという種の争い好きからきているのでしょう。 筒井康隆の小説に、「敵」という佳品があります。  定年退職して10年、75歳の元大学教授の日常を淡々と、しかしスリリングに綴っています。 もともと子どもはなく、妻に先立たれたため、元教授は一人暮らしです。 たまに訪ねてくる教え子の他には、話し相手もいません。 それでも老学者は毎日商店街に買い物に出かけ、三度の飯を自炊しています。 晩酌を楽しみ、ときにはスナックに出かけて、アルバイトで勤めている女子大生の人生相談に乗ったりもします。 それは慎ましい生活と言ってもいいでしょう。  しかし元教授の精神は、激しく揺れ動いています。 枯淡の境地か...
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文学=幻想文学?

1999年、ノストラダムスによれば空から恐怖の大王が降りてくるはずでしたが、何事もなく過ぎ、代わりに平野啓一郎という若い作家が鳴り物入りで芥川賞を受賞しました。 「日蝕」という中世フランスの神学僧が体験する神秘的な出来事を格調高い擬古文で描いて見事でした。 それまで若い作家のデヴュー作というと、若者風俗小説みたいなものが多かったので、とんでもない天才が表れた、と騒がれたものです。 三島由紀夫の再来とか言われていましたね。 その後も明治末、山中で毒蛇にかまれた美青年が夢とも現ともつかない体験をする幻想譚「一月物語」など、佳作を連発しています。 この人の小説を読んでいて、私はかねてから思っていたことが確信に近づきました。つまり、幻想文学と文学はほぼ同義ではないか、ということです。 古来、物語は神話から始まって、鬼や化け物や妖怪が跳梁跋扈する世界でした。 貧乏くさい私小説でさえ、心の中の妄想を書きすすめれば、現実にはあり得ない幻想世界が現出します。 わが国の古典文学は説話にしろ和歌にしろ能にしろ、みなこの世ならぬものへの憧れなくして生まれえないものです。 そこで、平野啓一郎の言葉。 芸術作品...
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冬の蠅

師走も下旬に入り、寒さ厳しくなってきました。 以前、蕪村の冬の句を取り上げて、冬ごもりの幸せな文学を紹介しました。 そこで今日は、冬の文学の中でも、陰惨なイメージのある梶井基次郎の「冬の蠅」を取り上げます。 所収は新潮文庫の「檸檬」から。 病気療養のために山中の温泉に長逗留している主人公。 居室には、冬だというのに蠅がいます。  冬の蠅は弱弱しく、日向ぼっこしているときだけ元気がよさそうに見えます。 弱弱しい蠅は、病で衰えた主人公自身の投影でしょう。 蠅と日向ぼっこしている主人公は、同時に太陽を憎んでもいます。 病鬱の主人公にとって、太陽は健康の象徴であり、それにあやかりたいと思いながら、憎まずにはいられないのです。 ある日、主人公は郵便局に行った帰り、通りかかった乗合自動車に乗ってしまいます。 そして夕暮れ時、山中におりて、次の温泉地までの道のりを歩き始めます。 自身を歩き殺す気概をもって。 港のその町に三日ほど滞在して、元の山中の温泉宿に戻ります。 すると、蠅が一匹残らずいなくなっています。 主人公は愕然とします。 あの冬の蠅は自分が暖房を焚き、日光を部屋に入れるそのおこぼれにあず...
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