文学

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蕪村句集講義

日曜日、「坂の上の雲」が放映されていました。 香川照之演じる正岡子規の最後は、凄絶なものでした。 苦痛に悲鳴を上げながらも句作の筆をとる執念、怖ろしいばかりです。 足あり、仁王の足の如し。 足あり、他人の足の如し。 足あり、大盤石の如し。 僅かに指頭をもってこの脚頭に触るれば、大地震動、草木号叫、女媧氏いまだこの足を断じ去って、五色の石を作らず。  「病床六尺」からの引用です。 女媧氏云々というのは、昔天地を支える柱が折れたとき、亀の足を切って柱を支えたという話から、その女媧氏でさえ自分の足は切れまい、という慨嘆でしょう。 大げさな表現にも見えますが、結核の毒が全身にまわったその痛みというのは、想像を絶するものであったでしょう。 正岡子規の母親は、臨終後、「もう一度痛いと言うてみい」と言って子規の足を叩いたそうです。 痛ましいかぎりです。 最近、子規が高浜虚子、河東碧梧桐と「蕪村句集」の輪読会を開いた様子を記した「蕪村句集講義」が出版されました。 それぞれの俳人が蕪村の句を取り上げて、これは昼だ、いや夜だ、後家だ、いやいかず後家だ、そっちのほうが趣がある、と談論風発。 誠に楽しげに蕪村...
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冬ごもり

デートがある日に急ぎの仕事が入った場合、仕事とデートのどちらを優先しますか、という質問に、なんと7割以上が仕事と答えたそうです。 この不景気のご時世、恋愛沙汰に浮かれていては職を失う、という危機感が強いのでしょうか。 その昔、バブルの頃にクリスマスイブに豪華なデートを楽しむのが当然という悪しき風潮がはびこり、なかにはデートのハシゴをする猛者まで現れました。 学生だった私は異教の祭りに参加する気はなく、部外者として世の浮かれぶりを傍観していました。 当時は恋人がいるかいないかがその人の人間的価値を決める尺度であるかのようなことを言うやつがいて、嗤わせてもらったものです。 師走に入って、町はクリスマスムードが盛り上がってきました。 プレゼントを楽しみにしている子どもたちには待ち遠しい日でしょう。 肩の力が抜けた中年になった私は、異教の祭りだと目くじらを立てず、華やかなイルミネーションを楽しんだり、シャンパンを飲んだりします。 それにしても師走に入ってから暖かい日が多いですね。  冬は寒いほど詩情豊かになるというもの。 暖かい冬というのは間が抜けていますね。 葱買うて 枯木の中を 帰りけり ...
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憂国忌

今日は憂国忌ですね。 あれから40年。 三島由紀夫は戦後の日本に絶望し、自衛隊に決起を促した後、それがかなわぬと知るや、森田必勝を伴って割腹自殺をとげました。 しかし三島由紀夫が求めた美しい日本は、過去にも現在にも、そしておそらく未来にも存在し得ない理想郷。 それがかなわぬ夢だということは、三島由紀夫自身がよく知っていたに違いありません。  彼は張りぼての城のような、作り物めいた耽美的な文学世界を築き上げました。 おのれの作品だけでは満足できず、この日本国をも、自らの美意識に従う張りぼての美的国家に変化させようとして、失敗しました。 しかし失敗は予想のうち。 失敗した後は自らの人生を美的作品に仕立て上げるため、割腹という方法で自死を遂げたのでしょう。 いわば、美の道化。 彼が道化であったことは、「仮面の告白」を読めば自明です。 そしてそれは、彼が忌み嫌った太宰治の「人間失格」となんとよく似ていることでしょう。 彼はどこまでいっても文学者で、決して政治の人ではありませんでした。 彼は見事に美の道化を演じきった、不世出の文学者でした。 不幸なことに、彼の政治的主張は、ついに入れられることは...
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物語

物語というのは、それが文学作品であれ、映像作品であれ、舞台芸術であれ、なぜかくも私たちを魅了するのでしょうね。 物語というのはその名のごとく、元は語られるものであったはずです。 親が子に、祖父母が孫に語って聞かせるお話しが、物語の源流であったことでしょう。 そういう意味では、落語や講談など、一人で語って聞かせる芸が、もっとも原始的な物語なのではないでしょうか。 物語は経験をコントロールして道を説いたり、美的発明として物語作者に与えられた方法であったり、と考えがちですが、私はそれは正確ではないと思います。 物語は人間精神の基本的な活動であり、運動です。 物事を学習するのも、批判するのも、物語に拠っており、したがって生きることそのものが物語としか言いようがない事態が現出します。 私と他者との物語、社会的・個人的な過去と未来についての物語を紡ぎながら、私たちは日々、生きているのでしょう。 つまり生きることは物語であり、真実は物語の中に存在します。 その真実を問うとき、物語のあまりの膨大さに、私たちはしばし呆然とします。 膨大な物語のなかに、世界に関する物語と、私に関する物語が存在するように思...
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チャタレイ・サド・四畳半襖の下張各裁判

私はホラー映画などの残虐な作品を好んで観ます。 また、性愛を扱った文学作品や映像作品にも好んで接します。 しかしそういったものは、多くの都道府県で有害図書等として、青少年へ販売してはいけないことになっているのですね。 まだ未熟な青少年がそれらわいせつとされる作品や暴力的な作品に感化されることを防止するという主旨は理解できます。 しかし私は、刑法175条のわいせつ物頒布等を禁じた法律には、非常な違和感を覚えます。 例えば成人が鑑賞するアダルトビデオ等は、生殖器が見えないようにモザイクをかければ合法ということになっているようです。 そういう基準を設けた人はよほど幼稚な性意識を持っていたと思われます。 人体の一器官にことさら意味を持たせるというのはいかにも不思議です。 というか、そういう風に取り締まるから、特別な意味を持ってしまったのです。 お上がこれはわいせつですよ、と言って隠すから、わいせつになってしまったのです。 また、1950年代から1970年代にかけて、チャタレイ裁判・サド裁判(悪徳の栄え裁判)・四畳半襖の下張裁判と、著名な文学者の作品がわいせつであるとして裁判にかけられ、いずれも...
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