文学

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くすむ

午前中、会議でした。 真面目くさった顔をして、目の前の瑣末事がさも一大事であるかのごとく、がん首そろえてひそひそ話。  私としては分担も責任もないその会議に、ただ担当係の一員だからと、晒し者のごとく座っているのは、気持ちの良いものではありません。   タイトルの「くすむ」は古い言葉で真面目くさっていることの意です。   なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ   「閑吟集」に出てくる小歌です。  どうも私は、会議などで真面目に議論していると、可笑しくなってしまう癖があります。法事などでも、坊主のお経を神妙に聞いている人たちを見ると、可笑しくなります。  あるとき、浄土宗の法事に参列して、みんなして小さな木魚を叩かされたのには参りました。素っ頓狂なリズムで叩く婆などがいて、吹き出しそうになるのを何度もこらえました。 夢の浮世にただ狂へ とどろ とどろと なる雷(いかづち)も 君と我との中をばさけじ こちらは「閑吟集」よりだいぶ後に編まれた「慶長見聞集」にみられます。 狂うというと、気が狂うみたいですが、要するに一心に遊べ、ということですね。風狂なんて言いますが、日本では古くから、現世...
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能「班女」

今日は国立能楽堂に出かけ、能見物としゃれこみました。金春流の定例会です。 能は「班女」と「巴」、狂言は「謀生種」です。 「巴」は、旅の僧がある女に出会います。 里の男に話を聞くと、この一帯は木曽義仲を奉っている、とのことで、僧が弔いをすると、さっき会った女が甲冑姿で現れます。それは木曽義仲に使えた巴御前の幽霊でした。巴はひとしきり戦の場面を舞ってみせ、ただ一人落ち延びた自分を弔ってくれるように僧に頼みます。 女の格好で槍や刀を振り回す姿は勇壮ですが、そこには敗軍の将に仕え、死してなお、成仏できない、戦の不毛さやせつなさが描かれているのです。 「班女」は、吉田少将と契りを結んだ遊女が、少将とかわした扇ばかりに見とれ、務めを果たさないため、追放されてしまいます。女は狂女となってしまいます。加茂庄で吉田少将は狂女の舞を見物し、これがかつて扇の契りを結んだ女だと気づき、二人は再会を喜び合います。 男女の機微を描いて秀逸です。しかし、女の舞のシーンが必要以上に長く、すこしだれました。 それにしても、能というのはその衣装も、ストーリーのシンプルさも、無表情で舞う様も、すべてがスタイリッシュですね。...
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1Q84 BOOK3

話題のベストセラー「1Q84 BOOK3」を購入し、半分くらいまで読みました。 BOOK1とBOOk2はもちろん、読み終わっています。 私はこの作家の本は、四半世紀というもの、ほぼリアルタイムで読んでいます。今はヨーロッパでも読まれ、ノーベル文学賞候補にまでなっているとか。 大したものです。 この作家の小説は、その文体などから、アメリカナイズされたように誤解されがちですが、そうではないと思います。記紀万葉の時代から、わがくにびとが大切にしてきた無常感や諦念といったものが小説の根底を流れていて、口当たりだけ、ハンバーガーのように食べやすいのだと思います。 その本質は、醤油と味噌と米。決して、ハンバーガーやフライドチキンではありません。 残念なのは、「風の歌をきけ」から「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」までは、瑞々しく、濃密な物語世界が展開されていたのに、「ノルウェイの森」以降、どこか気の抜けたビールのような小説が多くなってしまったことです。 いくつかの短編には見るべきものがありますが、「海辺のカフカ」にしろ、「ねじまき鳥クロニクル」にしろ、また今回の作品にしても、何か物足りない...
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最近、外で酒を飲む機会がめっきり減りました。 時代の流れでしょうね。仕事帰りに上司や同僚、後輩と軽く一杯、という風習は、もはや無くなったと言っていいでしょう。 個人の時間を大切にする、という意味で喜ばしいことですが、一方、なんだかさびしいような気もします。 オーソン実験の昔に立ち返るまでもなく、職場における人間関係が業務能率に影響を与えるのは、当たり前の話です。 むしろ欧米人が、オーソン実験の結果をみて、人間関係が能率に影響することに驚いた、という事実に日本人たる私は驚きます。我々にとっては、あまりに当たり前の話です。 その私たちも、古い言葉ですがノミュニケーション というものを捨てようとしています。 病気の私には、ありがたいことです。 外で飲むことは減りましたが、家ではよく飲みます。酒好きなのですね。 身もおもく 酒のかをりはあおあおと 部屋に満ちたり 酔はむぞ今夜 酒を愛した歌人、若山牧水の歌です。いかにも酒好きらしい、飲むことを楽しみにしている風情が伝わってきます。 蒼ざめし 額つめたく濡れわたり 月夜の夏の 街を我が行く 同じ歌人の手になる和歌です。大正元年発表の「死か藝術か」...
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じめじめ

一日、雨でした。早くも梅雨の予感です。 30代前半までは、男には珍しい冷え症で、冬には靴下を二枚はいたり、仕事の合間に手を お湯で温めたりしていたのですが、三年ほど前からでしょうか、この時分から10月くらいまで、足首、足指に熱感があって、不快です。手足だけは冬でちょうどよいくらいです。末端ぽかぽか症です。夏場は、家ではいつも素足。外出するときも、近くなら素足に雪駄です。これがじつに気持ちよろしい。 職場では素足というわけにはいかないので、五本指ソックスをはいてしのいでいます。 そして帰宅後の楽しみは、冷たい水で、一本一本丁寧に足指と足裏を洗うことです。仕事の疲れが吹き飛びます。足を洗うとは、よく言ったものですね。 中年の靴下は臭いとか。この時期だけは、自分の靴下が臭いと思います。 蹠(あうら)より 梅雨のはかなさ はじまりぬ つい数年前に没した桂信子の句です。 蹠(あうら)とは、足の裏のことです。 梅雨の不快感を、風流な、はかなさという言葉で表現しているのが面白いですね。もっと露骨な表現もできましょうに。 この俳人は肉体を感じさせる句が多く、 ふところに 乳房ある憂さ 梅雨ながき と、...
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