文学

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山頭火

種田山頭火の句集を読みました。 いわずと知れた自由律俳句の巨人です。 人生の後半を乞食坊主として、日本国中を歩き、句作を続けた俳人です。その精神には、芭蕉や西行とも違う、何か鬼気迫るものがあります。 風雅などではなく、漂泊そのもの、孤独そのもの、諦念そのもの、自然そのものが詠みこまれています。 それだけに、私には、山頭火の句が、恐ろしく感じられます。そんなこと詠んじゃっていいの、と問いたくなります。 例えば、「生死のなかの雪ふりしきる」「月が昇ってなにを待つでもなく」「うつむいて石ころばかり」「酒をたべている山は枯れている」 等の句。 反則ばかりです。 しかし、反則なのに、魅力的です。 私は、精神病を患い、ただ茫漠と日を送っていますが、山頭火は、ひたすらに生きました。私はその在りように、嫉妬を感じます。
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狂言「入間川」

昨日、テレビで狂言「入間川」を観劇しました。野村万作・萬斎親子が競演する豪華なものでした。私はおおいに笑いました。 かつて、狂言(喜劇)は、能(舞踊劇+歌劇)と同格に扱われていました。しかし、能が武家のたしなみとされるにつれて、狂言は能より一段低いものという認識が広がりました。もったいないことです。 かつて、喜劇である狂言を、能と同様に重視した感性を忘れたくないものです。
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青山娼館

小池真理子の「青山娼館」を読みました。 この高名な女流作家の小説を、ときどき、読みます。流麗な文章で一気に読ませる、うまい作家だと思います。 表題作は、青山の高級会員制売春宿で働く娼婦の物語です。 殺人劇でもないのに、作中四人も死人がでるのは不自然な感じがしましたが、まずは楽しめました。
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砂粒

あらゆる古典は、人類にとって金や銀です。歴史という風雪にさらされながら、生き残ってきたのです。それに触れずしては、この世に生まれた意味は半減します。 一方、歴史の風雪に耐えられなかった芸術作品も多くあります。 それらを、倉橋由美子は、「砂粒のような作品」と呼びました。 しかし、多くの砂粒があったればこそ、金や銀の貴重さがわかるのだ、とも。 今、生み出されている芸術作品が遠い未来において、金や銀になりうるかどうかは、神のみぞ知るところです。 しかし、砂粒も悪くはありません。それが金や銀を輝かせるのであれば。 ことは、芸術に限ってはいません。 人生全般においてそうです。  私の人生が、精神的病に冒され、無価値なものであったとしても、堂々と、私は砂粒だ、と言えれば、良いでしょう。例え自殺しようと、それは砂粒にとって精一杯だったということです。
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能楽

最近、能楽の全集を手に入れ、これをぱらぱらとめくっています。 もとより、私は能楽に関しては数回の鑑賞経験があるだけの、素人です。  日本の古典文学は、美と仏教とが融合したものと思われます。  古くは、美を代表する「源氏物語」や「新古今和歌集」などと、仏教を題材とする「今昔物語集」などに二分されていたように思いますが、能楽の完成に至って、これらは融合されました。 幽玄の美、と称せられる能楽には、たいてい、僧侶ともののけが同時に登場します。言うまでもなく、もののけは、美や、この世ならぬものへの予感、つまり芸術そのものを表し、僧侶は仏教哲学を代表します。これらが互いに主張したり、戦ったり、最後には大団円へと向かうさまは、圧巻です。 能で演奏される音楽も、見事にそれらの融合を表しているように感じられます。 最大の難点は、能面をかぶったりしているため、セリフが著しく聞き取りにくく、眠気を誘うことでしょう。
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