文学

スポンサーリンク
文学

年々歳々

今日は晴れて気温が上がり、20度に届こうかという勢いです。 今日も私は勤労意欲がわかず、無為に時を過ごしてしまいました。 勤労意欲がわくかどうかは、急ぎの仕事があるかどうか、あるいは懸案事項を抱えているかどうかにかかっています。 最近の私にはその両方が無いため、だらだらとしてしまいます。 そして窓の外の強い日差しを見ては、春の訪れを実感してため息をついています。 春宵や 屋根から上の 花の闇 久保田万太郎の句です。 花の闇という句が、なんとも春らしい感じを醸し出しています。こでまり抄―久保田万太郎句集 (ふらんす堂文庫)成瀬 桜桃子ふらんす堂 来週には桜が開花し、月末には満開を迎えるとか。 そして新年度を迎えるのですねぇ。 毎年4月は人の入れ替わりがあるため、混乱は避けられません。 年々歳々花相似たり、年々歳々人同じからず、と詠んだのは唐代の詩人、劉希夷でしたか。 まこと、花は毎年似通っているし、毎年同じように人々がいるようでいて、じつは年々入れ替わっていくものです。 そんなことを考えると、なんとも言えない憂鬱に囚われます。 私にとって不安や憂鬱は、もっとも親しい感情であり続けています...
文学

助走か、飲んだくれのオヤジか

年度末が近付いて、誰が異動するのしないのと、職場はそんな噂が飛び交っています。 どうせほどなく分かるし、どんな嫌な部署に異動になっても、また、どんな嫌なやつが自分の部署に着任しても、ただ淡々と仕事をこなすしかないのに。 時間の無駄です。  こんなことを繰り返してとうとう24年も過ぎてしまいました。 就職してしばらくは、プロの小説家を目指してせっせと小説を書いていましたっけ。 しかし専業作家で生きていけるのはそれこそ何万分の一という確率でしょう。 これはどうにもならんと、いつの頃からか、終業後は飲んだくれるだけのやさぐれオヤジに堕してしまいました。 それは精神の堕落には違いないのでしょうが、堕ちるということ、変に心地よくもあります。 世間的にみれば、安定した公的機関に勤めて、子供は出来ませんでしたが結婚もして、マンションも買ってと、順風満帆に見えるでしょうね。 でも精神的には、未だにモラトリアム気分を引きずって、自分が何者でもないように感じています。 それはおそらく一生続くでしょう。 筒井康隆の小説に、「大いなる助走」というのがありました。 直木賞(作中では直本賞でしたか)受賞を逃した若...
文学

無理

奥田英朗の長編「無理」を読み終わりました。 この作者お得意の、いくつかのストーリーが同時並行的に描かれ、ラストに到ってそれらが結びつく、というお話です。無理〈上〉 (文春文庫)奥田 英朗文藝春秋無理〈下〉 (文春文庫)奥田 英朗文藝春秋 町村合併によってできた地方都市、ゆめの市。 田舎町の退屈さにうんざりしながらも、そこでしか生きられない5人が描かれます。 東京の大学に進学し、田舎町からの脱出を夢見る女子高生。 田舎町のしがらみのなかで生きる市議会議員。 元暴走族で、今は詐欺まがいの訪問販売を生業とする青年。 新興宗教にはまる、スーパー保安員の中年女。 県庁から市役所に出向になり、勤務時間中に外回りと称して人妻専門の風俗にはまる公務員。 これらの人々が、様々な無理目な事情を抱え、奮闘しつつ堕ちていく物語になっています。  読ませる力は十分にあるのですが、この作者にしては人物の作りこみや物語の魅力に、やや物足りなさを感じます。 それは東北の架空の田舎町を舞台にしているからだけではないでしょう。 もっとどうしようもなく堕ちていく群像劇に仕立てることができれば、一皮むけた作品になっただろうに...
文学

花に酔う 事を許さぬ

なんだかずいぶん春めいてえきましたねぇ。 あと3週間もすれば、桜の季節です。  そして、今日は亡父の4回目の忌日。 あれから4年も経つんですねぇ。 私も年を取るわけです。 花に酔ふ 事を許さぬ 物思ひ 夏目漱石の句です。漱石俳句集 (岩波文庫)坪内 稔典岩波書店 夏目漱石は小説家として大成しましたが、俳句もよくしました。 その特徴は、どこか厭世的で愁いに満ちていること。 上の句も、春の物思いを詠んで、メランコリックな心地よさすら感じさせます。 以前、今年の春は珍しく春愁の気にあてられていない、と、このブログに書きました。 しかしいよいよ春めいてくると、やっぱり愁いが濃くなります。 年度末も近づいてきました。 木端役人をやっているかぎり、桜を見て憂鬱になるのは仕方ないのかもしれません。 午前中、実家の寺に墓参りに行きました。 座敷には7段飾りのお雛様が、庭には梅が、見事でした。
文学

性愛の文学

源氏物語の例をひくまでもなく、わが国において、というより世界において、恋愛あるいは性愛を描くのは文学の王道でした。 そして面白いことに、わが国の古典文学においては恋愛ということと性欲ということを分けて考えることはありませんでした。 また、男女間において、あるいは少年を愛する衆道において、愛する、という言葉を使うことはなく、通常は惚れるという言葉を使うことが多かったように思います。 それはすなわち、恋はあっても恋愛は無かったものと思われます。 明治に入ると、わが国における性的おおらかさは、庶民の風俗習慣はともかく、少なくとも文学の世界では性愛を描くことはタブー視されるようになりました。 森鴎外のヰタ・セクスアリスにおいても、性欲的生活を赤裸々に綴ると文頭で宣言しておきながら、まるでおのれの性欲を否定するようなエピソードばかり描かれ、まるで性欲を汚いものであるかのように感じさせます。ヰタ・セクスアリス (新潮文庫)森 鴎外新潮社 時代の制限なのでしょうか。 戦後にいたると、ほとんど性描写に終始している村上龍の限りなく透明に近いブルーなどがもてはやされ、これは大日本帝國の否定と同時に、性的な...
スポンサーリンク