文学

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笛吹き男

グリム兄弟の「ハーメルンの笛吹き男」の話は、子どもの頃に一度は聞きかじり、恐怖に震えたのではないでしょうか。 聖ヨハネ祭の頃、ネズミの大量発生に困っていた村に派手で大きな笛吹き男が現れ、報酬をもらえるならネズミを退治してあげよう、と言い、笛を吹くと村中のネズミが男の後をついていき、川で溺死します。 ところが村人が報酬を支払わなかったところ、翌年の聖ヨハネ祭の日に村に現れて笛を吹くと、村中の子どもたち130人が笛吹き男の後をついていき、二度と戻らなかった、というお話しです。  じつはつい最近までハーメルンでは、この事件が起きたとされる西暦1284年を元年とする暦を使う風習があったそうです。 多分子どもが大量に消えたことは歴史的事実だろう、と多くの研究者が憶測をたくましくしています。 遭難説、戦死説、東方植民説、舞踏病説、など。 私が興味をそそられたのは、当時ヨーロッパで広く知られていたという舞踏病説です。 これはお祭りのときなどに大勢で踊っていると、子どもや若者などが熱狂して忘我状態になり、倒れるまで(ひどい時は死ぬまで)踊り続けたというものです。 聖ヨハネ祭は夜に火をたいて踊ると言いま...
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比率

村上春樹の鼠三部作で、鼠は趣味で小説を書いています。 小説の流儀は、人が死なないことと、セックス描写がないこと。 それに比べて私は、文学作品はともかく、映像作品については、むやみに人が死んだりセックスしたりする映画やVシネマを好んで観ています。 なぜでしょうね。 家ではゴキブリが出ても殺害できず、逃げ回っているというのに。 そこで、殺人の話。 殺人事件について研究しているある学者が、精神病の専門雑誌に面白いことを書いていました。 どの国、どの文化にも共通しているのは、20歳代前半の男性が男性を殺害するケースが極端に多く、女性が女性を殺害する事件は極めて少ないそうです。 ところが、ここ20年ばかり、わが国においては20歳代前半の殺人犯が明らかに減ってきており、これは他の先進国にも、また発展途上国にも見られない現象だそうです。  20歳代前半の男といえば、動物でいうと巣立ちしてメスを求める頃合いでしょうか。 血気盛んで喧嘩っ早い世代だということは容易に想像できます。 洋の東西を問わず、この世代は暴力的になりやすいのですね。 テロの実行犯なんかもこの世代が多いようです。 不思議なのは、日本で...
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保険証が更新されて、新たに臓器提供をするかどうかを記載する欄が設けられ、私は提供しない、と意思表示しました。 わが国では亡くなることを息を引き取るとも言い、文字どおり呼吸が停止して、通夜をやって告別式をやって、なお蘇らなければ火葬して、それでも四十九日を迎えるまでは、この世とあの世の中間である中有の闇を彷徨って、やっと死の儀礼を終え、死んだことになるのでした。 死ぬのではなく、死に行くものでした。 ある瞬間を境に生が突然死に替わるのではなく、少しずつ衰弱し、息が弱くなり、息を引き取るのです。 「いくら息をしようと思ってもできなくなってしまう。どうしたらいいでしょう。ほら、いくらしようと思っても・・・」 そういううちにも幾度も息がとまりかける、一所懸命力をいれて吸いこもうとするのだが。  「誰か教えてくださらないかしらん。どうしても息ができなくなってしまう」 しまいにはうかされたように、 「誰か息をこしらえてちょうだい」 といった。 これは、中勘助の「妹の死」にみられる、23歳で世を去った妹の死を見取る場面です。 凄絶な臨終の場面です。   息は、生き物のいきであり、生きるのいきであり、...
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月光

此の歌即ち是如来の真の形体なり。 されば一首詠み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。 我此の歌によりて法を得ることあり。 もしここに至らずして妄(みだ)りに人此の道を学ばば、邪路に入るべし。 上記は、「明恵上人伝記」に見られる、西行法師の言葉です。 歌を詠むことを仏道修行と考え、仏像を彫るごとく歌を詠む、という覚悟のほどが示されていますが、少々カッコつけな感じがしますね。  月を見て 心浮かれし いにしへの 秋にもさらに めぐり逢ひぬる独り草庵で月を見ていて、出家前の、月に浮かれた頃を思い出して感慨にふける歌と見えます。 西行法師らしい感傷が感じられます。 なにごとも 変はりのみゆく世の中に おなじかげにて すめる月かな こちらも月。 何事も変化してやまないのに、太古から変わらず美しい光を放つ澄んだ月を賞賛しています。 ゆくへなく 月に心のすみすみて 果てはいかにか ならむとすらむ またまた月。 こんなに月光に心奪われて、自分はどうなってしまうんだろう、と嘆いています。 自由奔放な歌で、西行法師以前には見られなかった歌風ですね。 心なき 身に...
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みみらく

「蜻蛉日記」に、死者と会える島、みみらくについての記述があります。 死者はみみらくに現れるのですが、現世の人がその島に近づくと消えてしまう、とも。 いずくとか 音にのみきくみみらくの しまかくれにし 人をたづねん(『蜻蛉日記』)  この伝説は京都で流行り、京の人々はそういう島があるなら行っていみたいものだ、と思いながら、そこへ向かおうとはしませんでした。 ここが、恐山の口寄せと大きく異なりますね。 人々はただ死者を想い、いつかはみみらくに行って再会を喜び合おう、と思っていたのでしょう。 しかし、近付くと消えてしまう幻の島です。 上陸は夢のまた夢です。 現在では五島列島の福江島と考えられ、かつて遣唐使船の国内最後の寄港地だったとか。 遣唐使は命がけの渡海でしたから、この港を出れば生きて帰れるかわからない、という思いが、伝説を生んだのかもしれません。 死者への追慕の念は純粋ですね。 盆になったら坊主が来るのでいくらか包まなきゃならん、ああ、面倒だ、というのが本音としか思えない現在の風習とはずいぶん違います。蜻蛉日記 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)角川書店角川グループパブリッ...
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重陽

今日は9月9日、重陽の節句ですね。  だからといって、菊を酒に散らせることもせず、平凡な平日にすぎません。 台風の影響か、私が住まい、働く千葉県は、急激に涼しくなりました。 今までの猛暑が嘘のような。 また暑さのぶり返しはあるでしょうが、それは夏の残照のようなもの。はかないに違いありません。 芭蕉の句に、 この道や 行く人なしに 秋の暮 というのがあります。 静かな秋の夕暮れ時の、寂しい路傍が目に浮かびます。 一方、蕪村の句で、 戸をたたく たぬきと秋を おしみけり  という、どこか滑稽味のある句が詠まれています。 四季折々を楽しむのがわが国古来のしきたりですから、秋には秋の良いものを楽しみたいものです。 秋は豊かな収穫を寿ぐ時季でもあります。 今年は秋刀魚が不漁だそうで、我が家ではまだ秋刀魚を食していません。 去年は一匹50円まで下がって、いやというほど食ったのですが、今年はまだ200円もしますね。 目黒の祭りも金がかかってしかたないでしょう。 また、秋はどこかさびしい季節でもありますね。春は春愁、秋は愁思とか言います。 人にとって過ごしやすいはずの春や秋に憂愁の情に捉われるというの...
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エコ源氏

エコロジーというのは近頃の流行りですね。  燃費が良い車に乗るとか、割り箸は使わないとか、そんなイメージですね。  しかし米国人の日本文学研究者が、奇妙なことを言い出しました。  エコ「源氏物語」研究が必要だそうです。 エコとはいっても、「源氏物語」で自然がどう語られているか、とか、紫式部の自然観とか、そういったことを研究するのではないそうです。 文化を考えるときに、例えば日本人は日本文化を日本独特の素晴らしいものだと考えます。 その米国人は、このような文化への態度を、文化は常に同時に宣戦布告なり、と言っています。  文化の独自性を言い立てるのではなく、文化の普遍性を見つけることが肝要、ということです。 エコロジーの問題を、国家に任せるのではなく、自我と他者に関する態度や、考え方そのものから変えていかなければならないそうです。  「源氏物語」のエコ研究ですが、「源氏物語」は総体的に支配できるような読みを拒絶する構成になっており、それをしようとするとtextual violenceとでもいうべき、暴力的な状況が生まれます。 「源氏物語」が持つ不安定さを読み取っていく作業が、個人的レベルの...
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ピーター・パン

子どもは残酷だ、とはよく言われることですね。 新学期を迎えて、小学生の集団登校を見かけますが、一人で三つもランドセルを持っている子がいます。 いじめなのか、あるいは何らかのゲームで負けた罰なのか不明ですが、見ていて気持ちの良いものではありません。 小学生時代、大抵の子は意味もなく虫を殺した経験があるのではないでしょうか。私も蟻を踏みつぶしたりしました。 また、子どもが好むヒーロー物や戦隊物などは、明らかに善とされる側のほうが残虐です。 例えば仮面ライダーでは、ショッカ―と呼ばれる兵隊が大勢出てきますが、仮面ライダーはためらうことなくこれを倒していきます。 ウルトラマンもマジンガーZも敵を殺害することを躊躇しません。 宇宙戦艦ヤマトやガンダムは、まるっきり現実の戦争の焼き直しであり、互いに大量虐殺しあう映像を観て視聴者は喜んでいるわけです。 ヤマトが敵に特攻を行う場面などは、片道分だけの燃料を積んで自殺行為のような沖縄への援軍派遣を試みた戦艦大和とだぶって、まともに観ていられません。 「戦艦大和ノ最期」は壮麗な文語調でこの悲劇を語って見事です。 極めつけが、ピーター・パンでしょうね。 デ...
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坂口にせよ、太宰(治)にせよ、田中(英光)にせよ、揃いも揃った愚弟ばかりだね。彼等の兄貴を見て御覧、みんな堂々たる賢兄ばかりだよ。 上記は、亀井勝一郎が坂口安吾の死の直後に発した言葉です。 愚かな弟だから文学に魅かれるのか、文学に興味を持つようなやつは大抵愚かな弟なのかわかりませんが、そういう傾向はあるのかもしれませんね。 私にも賢い兄がいます。 坂口安吾は自伝的小説「石の思い」で、両親を批判して、時にその筆は激烈ですが、兄弟に対してはとくにコメントしていません。 存在そのものが持つ孤独性を評して、石が考える、と表現しています。 私は幼少の頃から、石に多大な関心を寄せてきました。 幼い私は、石は生きていると考えていました。動物が起きている生、植物が眠っている生、鉱物は脳死のような生であろうと、予感していました。 齢41を迎えた今も、この予感は変わりません。 そして孤独の絶対性と言う意味で、鉱物に敵うものはありません。 石は幼い私の退行欲求を刺激し、今も刺激するのです。 石は私にとってヒーローのような存在です。 石はただそこに在るだけで、孤独の苦痛と、退行の快楽を体現してくれるのです。 ...
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留学と疎開

わたしはいくさのあいだ、国外脱出がむつかしいので、しばらく国産品でまかなって、江戸に留学することにした。 上記は、戦後、石川淳が戦中の過ごし方を語ったものです。 優雅な話ですね。 軍靴が響き、焼夷弾が降る帝都で、江戸に留学していたとは。 そこで石川淳は、江戸狂歌のなかに、生活と文学とを一本に通して俗中に於けるこの虚構の世界よりほかに幸福をまかなふ道は無いといふ存外強烈なる人生観、を見出します。 一方同様に戦争中江戸文学に耽溺していた永井荷風は、怠惰な眠りを許してくれる退行的な揺りかご、として、言わば江戸に疎開していたように見えます。 ここに、永井荷風死後、死者を悼むものとは思えない、激烈に荷風山人を批判する「敗荷落日」が石川淳によって書かれなければならなかった、両者のスタンスの違いが見られます。 私は石川淳を深く尊敬し、永井荷風を敬愛するものですが、石川淳はあまりに厳しいように思います。 芸術家とはこうあらねばならない、という理想が強すぎて、くたびれちゃいます。 作品は奇想天外で面白いのに、その余で余計な理屈をこねて、読者を白けさせますね。 世界像との関係に於いて、地上に於ける人間の運...
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プロレタリア

少し前ですが、不景気の影響か、「蟹工船」が若者に人気を博しましたね。 恥ずかしながら、私もいい年をして初めてプロレタリア文学に接しました。 感想は、ああそう、というところでしょうか。 宗教であれ政治思想であれ、私は主持ちの文学を好みません。 そのせいか、国文学では中世説話を最も苦手とします。 しかし最近、プロレタリアを標榜する短歌や俳句、川柳に接する機会があり、新たな発見をしました。 けっこう面白いのです。 宮城の つい目のさきの 闇市の 人間像を凝然とみる 市の悪 むしろ絢爛たるいのち 太陽ここに明日も照るべし いずれも坪野哲久の作です。 闇市のなかにもたくましく生きる庶民が描かれています。 この歌人は、戦前治安維持法違反で検挙されているそうです。 射抜かれて 笑って死ぬるまで 馴らし  堤 水叫坊 手と足を もいだ丸太に してかえし   鶴 彬 川柳もけっこう頑張っています。 川柳はプロレタリアというよりブラックユーモアですね。手足を失った体を丸太に譬えるなんて。きついですねぇ。    プロレタリア文学者というのは一般に辛い現実を描きだすのが上手です。 しかし不思議なことに、明治4...
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自由に

定型からも季語からも解き放たれた自由律俳句。 自由に作っていいよ、と言われても、かえって戸惑うのが俳句詠みの常。 それでも自由律俳句ばかりを詠み続けた明治生まれの二人。 種田山頭火と尾崎方哉。 そして、昭和の終わりとともに25歳で逝った住宅顕信。 種田山頭火の句は明るく活発。 尾崎方哉の句はさびしく不気味。 住宅顕信は尾崎方哉に憧れて、憧れの人のゆえか若くして発病した難病のゆえか、幸薄く鋭利。 この旅 果てもない旅のつくつくぼうし  種田山頭火 蟻を殺す 殺すつぎから出てくる      尾崎方哉 とんぼ 薄い羽の夏を病んでいる     住宅顕信 私はあまり自由律俳句を好みませんが、上の三人は別格というか、多分従来の形式では表現し得ない世界を持ち、それを現すのに自由律俳句が最も適していたのでしょうね。 素人が手を出すと、限りなく滑稽に堕しますので、ご注意。 上の三句は、夏と虫という共通点で選びました。 それぞれの俳人の特徴がよく出ていると思います。  明治生まれの二人は高学歴ながら酒で身を持ち崩し、最後は知り合いの寺に厄介になりました。 住宅顕信は学歴はなく、酒もやらず、出家しました。 ...
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電話男

今、インターネットの普及によって見ず知らずの人とコミュニケーションをとることは、当たり前になっています。 今から26年前、1984年に書かれた「電話男」は、電話によって赤の他人たちとのコミュニケーションを図り、それによって彼我ともに癒される存在を描いて秀逸です。 電話男(電車ではありません)は、日がな一日電話の前で、悩める人々からの電話を待つのです。 それはテレクラのような会うことを目的としたものではなく、ただ電話があり、電話男がいて、電話が鳴るのです。 彼らは闇の存在ですが、同じく闇に住むテロリストの標的になっていきます。 対面でのコミュニケーションを阻害する不逞の輩として。 人とのコミュニケーションを求め、それがはかないことを知って絶望する、そして、テロリストに狙われる。 今日のインターネット社会を凌駕する切なくて残酷な物語が、ユーモアを交えつつ加速度をつけて展開されます。 これは某文芸誌の新人賞を受賞しましたが、ずいぶん評価が分かれたそうです。 しかし時代は「なんとなく、クリスタル」だとかニュー・アカデミズムだとかが流行っていました。 斬新なものが受け入れられる素地があったのでし...
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高校野球

夏の甲子園大会も佳境を迎えていますね。 私は元来、高校野球を好みません。 技術も未熟だし、体もひょろひょろで頼りない。 そのうえ用もないのにヘッドスライディングなんかしてユニフォームに土をつけて喜んでいるのがあざとい感じがします。 しかし、因縁浅からぬ高校が出場すると、そうは言っても気になります。 東東京の関東一高と千葉の成田が対戦しました。 東東京は私のふるさと。関東一高に進んだ友人も大勢います。 一方千葉は現在私が住まいする地。 職場の人々はみな成田を応援していました。 結果、成田が快勝しましたね。 関東一高の選手も悔いはないのではないでしょうか。今やかの 三つのベース人満ちて  そゞろに胸のうちさわぐかな若人の すなる遊びはさはにあれど ベースボールに如く者はあらじ 野球をこよなく愛した正岡子規の歌です。 私はスポーツは苦手で、もっぱら観戦するほうですが、ときには自分にもスポーツの才能があったらいいな、とおのれの運動音痴を嘆くのです。正岡子規―ベースボールに賭けたその生涯城井 睦夫紅書房
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南方浄土

浄土というと西方に在るというのが一般的ですが、平安時代から江戸時代にかけて、南方の浄土を目指す命がけの渡海が行われていたことを、最近知りました。 西方浄土の場合には、あくまで信仰上の問題で、実際に西に向かって旅立ったという話は寡聞にして知りません。 しかし南方の場合には、多く那智の海岸から、小舟を仕立てて、あえて台風の多い11月に、僧侶一人が乗りこんで、海流のままにこぎ出したそうです。 南方の海の彼方に浄土があると信じたのですね。 当然のことながら、その小舟がどうなったかという記録はほとんどなく、いわば即身成仏のような、自殺行だったと考えられます。  これを、補陀落渡海(ふだらくとかい)と呼んだそうです。  私はこれを、井上靖の「補陀落渡海記」という作品で知りました。 那智の補陀落寺の住職は61歳になると補陀落渡海に出るならわしがあり、周囲の圧力から逃れられません。 住職、金光坊はこの自殺でしかない宗教儀式の時を、死の恐怖と信仰の狭間に揺れながら待っています。 そして渡海後、金光坊は船から逃れて小島に上陸し、生き延びようとしますが、役人や信者に捕えられ、再び渡海を強要されます。 井上靖...
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