文学

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台風一過

台風らしからぬ台風が行ってしまい、しかし台風一過らしい暑さがやってきました。 私が執務する部屋は西日があたり、エアコンをかけていても午後はむうっとする暑さです。 お手討ちの 夫婦(めをと)なりしを 更衣(ころもがへ) 与謝蕪村の句です。 更衣は夏の季語。 不義密通の罪で処刑されるはずのところ、罪一等を減じられて他国へ落ち延び、ようやっと二人で更衣の季節を迎えられた、といったほどの意でしょうか。 色っぽくも切ない内容で、夏の句らしからぬ情趣を感じます。 涼しさや 鐘をはなるる かねの声 こちらも与謝蕪村の句。 鐘がなるたびにその音は離れていく、ということで、爽やかな印象とともに、どこか寂しさも感じます。 郷愁の詩人と呼ばれた面目躍如といったところでしょうか。郷愁の詩人 与謝蕪村 (岩波文庫)萩原 朔太郎岩波書店 私は俳人のなかではこの人の句を最も愛好しています。蕪村俳句集 (岩波文庫)尾形 仂岩波書店 ただ、わが国の文人の例にもれず、この人も夏を詠んだ句は少ないようです。 夏と言う季節は、わが国の詩歌の美意識に合わないのかもしれませんね。 暑すぎて閉口しますから。 日傘の影 うすく恋して...
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芸術の暴力

今日は昼寝をしたり珈琲豆の専門店に行ったりして、のんびり過ごしました。 こういう土曜日も、時には悪くありません。 徒然に、好きな象徴主義の巨匠、ギュスターブ・モローの絵画集など紐解きながら。 私が最も好む「化粧」です。 初めて美術館で目にした時、私は30分以上この絵の前にたたずみました。 そして女のスカートがたびたび私の前をひらつき、私は必死にそれをつかもうとしたのです。 周りの客はさぞかし奇妙なやつだと思ったでしょう。ギュスターヴ・モローの世界新人物往来社新人物往来社 しかし、私が美術であれ文学であれ、その世界に深くシンクロすると、そういうおかしな現象が時折起こります。 そしてそれが起きると、私は激しく疲労します。 文学作品では、石川淳の「紫苑物語」や三島由紀夫の「鏡子の家」、川端康成の「眠れる美女」、倉橋由美子の「シュンポシオン」などでそういう現象が起こりました。紫苑物語 (講談社文芸文庫)立石 伯講談社鏡子の家 (新潮文庫)三島 由紀夫新潮社眠れる美女 (新潮文庫)川端 康成新潮社シュンポシオン (新潮文庫)倉橋 由美子新潮社 読み終わって数日の間、現実にいるのか物語世界の中に入...
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妖怪怪異

7月に入って、今日は晴れてずいぶん夏めいた一日でした。 わが国では、夏と言えば怪談。 怪談話を聞いて、冷やぁっとして涼もうとは、ずいぶん悠長と言おうか、まどろっこしい話です。 現代ではエアコンをかければいつでも高原の朝のような涼気を得られます。 そんな現代でも、夏になると怪談が流行りますね。 私は幼いころから怖いお話や不思議なお話が大好きでした。 それが高じて今も幻想文学やホラー映画が大好きです。 このブログをご愛読くださる方はよくご存知のとおり、私は常軌を逸したホラー映画ファンでもあります。 幽霊だとか妖怪だとか怪物だとか言う物は、観念上の存在で、物理的には存在しえないことになっています。 呪術だとか魔術だとかもまたしかり。 それはそうなのでしょうが、私は言葉が存在するかぎり、それは実体として存在する、もしくは実体として存在するのと同様の確からしさをもって人々から認知されているものと思っています。 例えば幽霊。 幽霊という言葉が存在するということは、幽霊なる概念が存在し、それは多くの人からこういう物と認知され、さらにごくわずかの人々はその存在を見たりして、実体を伴う存在と信じています...
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病みつつ我は

5月12日に飲み仲間であった三つ年上の悪友が47歳の若さで果かなくなってしまったことは、その日のうちにこのブログで報告したところです。 近しい人が亡くなるということは誠にしんどいことですが、ただしんどいだけではなく、おのれの死を考えるきっかけになります。 「哲学は死の練習である」とソクラテスは言い、「死がなければ哲学もなかったであろう」とショーペンハウアーは言ったそうですね。 ことほどさように人間にとって死というのは重要で興味深い問題です。 いつでしたか、テレビで西部邁も「死と宗教」の問題だけが人間にとって唯一の関心事だ、といった意味のことを言っていましたね。 私が最も死に近づいていたの平成16年から17年にかけて、うつ状態が激しい頃で、最も深く人の死について考えたのは2年3カ月前の父の死から数ヶ月の間でした。 いずれもかなり直接的な理由があったためで、人間、切羽詰まらないと、おのれの死というがごとき重要なことも忘れてしまうようです。父の齢(よはひ)に 至らざれども 良寛の 示寂に近し 病みつつ我は   宮柊二の歌です。 父親の寿命よりは若いけれど、良寛の死期に近づき、死を意識したとい...
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夏至を過ぎる頃

もう夏至を過ぎてしまったんですねぇ。 これから少しづつ陽が短くなると思うと寂しい限りです。五月雨に 物思ひおればほととぎす 夜ふかく鳴きて いづち行くらむ  古今和歌集にみられる 紀友則の和歌です。 五月雨は旧暦であることを考えれば梅雨時。 夏至なんて言葉はわりと新しいので、直接夏至という言葉を織り込んだ和歌なんてあり得ません。 五月雨とか短夜(みじかよ)なんかが夏至の頃を表すと言えましょう。 わが国の古典文学では、なぜか夏の詩歌が極端に少ないのですよねぇ。 わが国の夏は非常に苛烈ですから、歌心も起こらなかったのかもしれませんね。 そんな嫌な季節にも、物思いに沈み、ほととぎすがどこへ行くのかぼんやり考え、同時におのれの今後、ひいては人の一生というものの儚さを嘆いているような感じも受けます。 時の移ろいや自身の衰えを嘆いても詮無いことではありますが、それを嘆かずにはいられないというのもまた、人の性であるように思います。 だんだん陽が短くなるというのに気温はどんどん上がっていくのは奇妙なものですね。 今はまだ夕方職場を出るころ明るいですが、秋になり冬が来ると真っ暗。  あれが嫌なんですよね...
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