思想・学問

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生きがい

人間というのは強欲なもので、衣食住に困らない豊かな社会においては、生きがいだとか生きる意味だとかを考えだし、ひどい場合には衣食住に困らない恵まれた境遇にありながら、生きがいや生きる意味が分からない、などと言って自殺する者さえいます。 豊かな社会が必然的に引き受けねばならないリスクであるかのごとくです。 概ね人は、思春期において初めて生きがいとか生きる意味とかを考えます。 しかし就職して忙しく働くうち、そのような問いを忘れてしまうものです。 次に中年にいたり、家庭を持ち、職場でもそこそこ出世し、それなりの収入を得ながら、それでも幸福感が感じられないと、再び生きがいや生きる意味を考えるようになります。 さらに引退し、これが自分の仕事だ、というものを失った老年期にも、そのような疑問を持つようです。 哲学者や文学者、宗教家や精神科医などが、それほど星の数ほど生きがいや生きる意味についての書物を残しています。 しかしおそらく、それらの書物をいくら読破したところで、生きがいや生きる意味を見出すことはできないでしょう。 この問いには普遍的な答えはなく、七転八倒の苦しみの中で、おのれ独りで考え出すしか...
思想・学問

気付いたら、一日が終わってしまいました。 休日の時間の流れとは、切ないばかりです。  私は今、夕飯を終え、焼酎で良い感じになっています。 この酔いが私にわずかな慰めをもたらし、その反動として、時間を奪います。 私は40代半ばを迎え、なんだか全てを諦めてしまったような気分に襲われています。 それと同時に、自殺願望という狂気を孕んだものとは別に、死は恐るべきものではないのではないかと思うようになりました。 なんとなれば、人は必ず死ぬように出来ていて、それをむやみに怖れることは、人生をつまらなくするように思うのです。 私はそれぞれの年代において、馬鹿な遊びを楽しみ、年相応の愚かな行為を楽しんできました。 しかし今、その場しのぎの遊びを楽しむ時期はとうに過ぎました。 静かに、人生の終わりを考えるべきでしょう。 現在の寿命を思えば、やや早過ぎるのかもしれませんが、私は何しろせっかち。 生まれる時も、予定日より二か月も早く出てきて、未熟児だったため、乳を飲む力が無く、母はスポイトで無理やり私に乳を飲ませ、あまりに体重が軽いため、八百屋などで使う量りを買ってきて、毎日私の体重を計り、私が成長すること...
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正しい歴史認識とは?

近頃の韓国の朴大統領の子ども染みた言動は目に余りますね。 はるばる欧州や米国、ロシアに出かけていってわが国が正しい歴史認識を持たないかぎりわが国とは会談もしないと、告げ口してまわっているようで、諸外国も正気の沙汰とは思えない言い草に、あきれ返っているようです。 例えばベトナムとカンボジアは伝統的に仲が悪いとか、セルビアとクロアチアはかつて戦争をし、今も鋭く対立しているという話は聞きますが、片方が世界を回って悪口を言い続けるなんて、聞いたことがありません。 私たち日本人が、カンボジアとベトナムやセルビアとクロアチアとの歴史がどうなっているかなんて、全然関心が無いのと同様、欧州諸国や米国から見れば、日本も韓国も同じような所にある同じような国で、どういういきさつで日韓関係が冷え込んだかなんて興味ないでしょうに。 まぁ、あのおばちゃんがそんな馬鹿げた言説を世界に広めれば広めるほど、韓国の愚かさが強調され、わが国を利することは確かなので、大いにやってもらったほうがむしろわが国にとっては美味しい話です。 韓国在住30年のドイツ人大学教授は、韓国人に「外国人相手にウリ(我々)と言う言葉ばかりを使って...
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猿芝居

年相応、という言葉がありますね。 子どもには子どもの、思春期には思春期の、学生には学生の、若い社会人や中年の中間管理職にはそれ相応の役割があり、悩みがあるというわけです。 近頃、そのことを実感します。 40代も半ばになってそんなことを感じるとは、遅きに失した感がありますが、独身を貫き、趣味や恋愛など、若者の特権と言うべき楽しみを永遠に楽しもうという勘違い中年男女が急増している今、私は少しマシかなと思います。 言わば現世は、誰もが年相応、身分相応の猿芝居を演じ続けることによって成り立っています。 それを拒否して自分探しという不毛な精神上の旅を続ける者もいますが、それは食えるあてがあってこそ出来ること。 一般的には食うために、嫌でも猿芝居の世界に打って出て、その芝居を続けなければ食えなくなるという恐怖ゆえ、猿芝居を続け、気が付いたら老境に差し掛かっていた、というのが本当のところなのではないかと思います。 猿芝居から抜け出す才能が無い者は、ジャンボ宝くじなどに夢を乗せ、芝居なしに生きられる将来を夢見るのでしょう。 私もまた、必ずジャンボ宝くじを購入する愚か者の1人です。 幸福とは一体どういう...
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死と宗教、あるいは、詩と真実

今日も今日とてクソくだらない会議があり、腹の底では馬鹿馬鹿しいと思いながら、求められればさも重大事のような顔をして発言を繰り返しました。 人間が生きるということ、それぞれの業界でのルールを守り、糞真面目そうな面をして、芝居を繰り返しているかのごとくです。 そして今、わずかな夜の時間を焼酎のロックで心を休めています。 人生にとって究極的に重要なのは、詩と真実、そして、死と宗教の問題であるに違いないと思います。 さらに言えば、死という意味不明な事態の究明。 しかし、それら究極的に重要な、人であれば誰でも知りたいと思うことだけは、絶対に知り得ないように出来ているのが冷厳な事実です。 知り得ないと知りながら、それを求めてしまう人々は、嘘でも良いから宗教をでっち上げ、それを信じることによって、精神の安定を得ているものと推測します。 私は長い精神障害の苦しみから脱出し、最後の病気休暇から職場復帰し、そろそろ4年近くが経とうとしています。 その間、私の魂は激しく動揺しながらも、どうにかこうにか日々の業務をこなしています。 先日の精神科の診察では、主治医から、「そろそろ抗うつ薬を完全に切りますか?今で...
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