
「無明の井」 ー脳死をめぐる新作能ー
私は保険証の裏に、死して後、臓器は一切提供しない旨の意思表示をしています。 あの世とやらが不明である以上、死して後、臓器が無くて困るということがあってはいけませんから。 免疫学者にして文筆家でもあった東京大学の多田富雄名誉教授は、脳死を題材とした新作能を残しました。 題して、「無明の井」。 脳死状態に陥った男が、その意に反して心臓を摘出され、ある女に移植される話です。 この能では、男ばかりか、生きながらえた女もまた、他人の心臓を得て生き残ったことに深く苦しみます。 ある旅の僧が、仮寝をした涸れ井戸の側で、土地の者からある昔話を聞きます。 嵐で瀕死の状態となった漁師の男の心臓が、命の尽きかけた娘に移植され、彼女は生き永らえ、男はそのまま死んでしまいます。 娘は人の心臓を取って生き永らえたことを罪と感じ、懺悔の一生を送ったというのです。 この話を聞いた僧が二人のために祈っていると、心臓を取られた男と移植を受けた女の亡魂が現れます。 自らの屍を求めて彷徨っている男は、心臓が取られるさまを再現します。 魂は黄泉路(よみじ)をさまよひて、命(めい)はわづかに残りしを、医師ら語らひ、氷の刃、鉄(...