最近中東情勢のニュースを耳にしませんが、どうなっているのでしょうね。
世界のどこかで紛争や混乱が生ずれば呼ばれもしないのにのこのこ出かけて行って、これを正義の名の下に解決する、偉大な米国はリビアには介入しないんでしょうかねぇ。
ネイティブ・アメリカンを虐殺しまくって土地を奪い、米国を建国した後はアフリカから黒人を拉致して家畜同然に使役した米国。
朝鮮半島や中国、東南アジアを大東亜共栄圏の名の下に蹂躙した大日本帝国。
どっちもどっちと言うべきでしょう。
戦後、被爆体験をまるで自慢するかのようにふりかざし、絶対平和こそ正義と信じて他国に押しつけようとした愚かな日本の平和主義者。
被爆によって、日本人は平和を語る資格を持った選民だとでも勘違いしたようです。
日本と戦った連合国や日本の支配を受けた人々から見れば、平和の押し売りをしようとする日本人を見て、さぞ白けた気分になったことでしょう。
戦前は、天皇の徳治によって、八紘一宇の精神で大東亜共栄圏を築き上げるために選ばれた民のようなことを言って、敗れたならば、平和という新しい価値観を、唯一の被爆国であることを理由に広める選ばれた民のようなことを言う。
気持ち悪いですねぇ。
八紘一宇が平和に変わっただけで、選ばれた民であるという意識に変わりはありません。
しかしどこの国でも、自国を特別な国だと思うことは自然な情でしょう。
わが国の怖ろしいところは、人口と経済において大国であること。
ある程度、国際社会に影響力を持っていること。
最近の中国の例を見るまでもなく、大国が迷惑な行動を起こすと、世界は混乱します。
大東亜共栄圏や絶対平和というのは、一時的な流行りの思想ではあっても、人類の普遍的な価値ではありますまい。
その当時の人々がそれを正しいと信じていただけのこと。
そもそも人類の普遍的な価値など、この世に存在し得ないものです。
所変われば品変わる。
時代や状況が変われば価値観も変わる。
戦中、特攻まで仕掛けてお国のために戦うことを良しとした日本人が、あっという間に平和が一番と言いだしたことでも、それは明らかでしょう。
きっかけさえあれば、価値観などいかようにも変化します。
だから私は、政治がらみの価値観ということを、一つも信じないことにしています。
時代の要請によって、一応、自由と民主主義が良い、平和が良い、とは口にしますが、じつはそんなもの信じていません。
オウム真理教のテロが成功したなら、私は迷わず、麻原尊師万歳を叫ぶでしょう。
それが庶民の生きる道。
命がけで守るべき価値など、この世には存在し得ません。
それはずいぶん冷めた、ニヒリスティックな考えに思われるかもしれません。
しかし冷めていなければまともな判断はできず、ニヒリスティックでなければ火宅の業火に焼かれてしまうでしょう。