生きがい

思想・学問

 人間というのは強欲なもので、衣食住に困らない豊かな社会においては、生きがいだとか生きる意味だとかを考えだし、ひどい場合には衣食住に困らない恵まれた境遇にありながら、生きがいや生きる意味が分からない、などと言って自殺する者さえいます。

 豊かな社会が必然的に引き受けねばならないリスクであるかのごとくです。

 概ね人は、思春期において初めて生きがいとか生きる意味とかを考えます。
 しかし就職して忙しく働くうち、そのような問いを忘れてしまうものです。

 次に中年にいたり、家庭を持ち、職場でもそこそこ出世し、それなりの収入を得ながら、それでも幸福感が感じられないと、再び生きがいや生きる意味を考えるようになります。

 さらに引退し、これが自分の仕事だ、というものを失った老年期にも、そのような疑問を持つようです。

 哲学者や文学者、宗教家や精神科医などが、それほど星の数ほど生きがいや生きる意味についての書物を残しています。

 しかしおそらく、それらの書物をいくら読破したところで、生きがいや生きる意味を見出すことはできないでしょう。

 この問いには普遍的な答えはなく、七転八倒の苦しみの中で、おのれ独りで考え出すしかない、困難な問題だからです。

 ただ、一般的にあてはまる答えはあるものと思います。

 自分がやりたいことが義務である場合、大抵の人はそもそもそのような疑問を抱くことなく、幸福に生きていけるように思います。

 逆に言えば、自分がやりたいこととは別の義務(それは生きるためには仕方ないことですが)を負っている場合、人は生きがいや生きる意味とは何かを考えずにはいられなくなるのでしょう。

 それは何もプロ野球でスター選手になりたい、などという大それたことである必要はありません。

 本人が、例えば看護師となって病人を助けたい、とか、小学校で子どもを教育したい、とか、そういったことで十分です。
 さらにはビル清掃の仕事に就いて、ビルが綺麗になることがやりたいことであり義務である、ということでも良いでしょう。

 要は本人の感じ方の問題に過ぎません。

 そんなことを書きながら、私自身、やりたいことと稼ぐための義務が乖離しており、就職して22年、まるで他人の人生を仮に生きているような感覚を感じ続けています。
 おそらく引退するまで、それは続くものと予感しています。

 一方、そもそも人生に意味など無い、というニヒリズムと呼ばれる考え方がありますね。

 それは一見真実のように見えますが、結局のところやりたいことと義務が一致しない者が言いだす愚痴にしか聞こえません。

 私は躁転の危険があるからと、私にとって最も興味深い、物語を生み出すという行為を精神科医から禁じられています。

 毎日毎日飽きもせずブログを更新し続けているのは、その欲求不満からだと自己分析しています。

 私は精神障害発症以来、生きがいだの生きる意味だのを考えることはなくなり、精神的に健康であることが、生きる意味になってしまいました。

 一種の思考停止ですね。

 しかしそれは、私に思わぬ幸福感をもたらすことになりました。
 人間、合理的な理由により思考を停止するのは、楽に感じるように出来ているようです。

 かつて米国で黒人奴隷を解放しようという動きが起きた時、最も反対したのは当の黒人奴隷だったと聞き及びます。

 そういう意味では、私は今、奴隷の幸福を生きているのかもしれません。

 もし生きがいや生きる意味が分からず煩悶している方がいたら、それを求めることこそが生きる意味なのだと心得て、精いっぱい苦しんだら如何かと思います。 

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