近頃一流ホテルやデパートなどに出店する高級レストランが食材を偽装表示していた事件が次々に発覚し、責任者は判で押したように、「知らなかった」だの「偽装表示ではなく誤表示だ」だの、醜い言い訳を繰り返しています。
ささやき女将で有名になった船場吉兆はその後廃業においこまれましたが、吉兆嵐山本店は今、1人あたりの客単価が世界一高いことで知られています。
また、ある京都の老舗の料亭の女将が、客に「これほどの味を出せるのだから、支店を出したらどうか」と勧められ、「屏風と食べ物屋は広げたら倒れますのや」と応えたと聞きます。
個人が商いをしている店があんまり店を広げれば、主人の考えが行き届かなくなるということでしょう。
逆に、大手チェーン店などは、細かいマニュアルを作って社員を教育し、どの店に行っても同じようなサービスを提供できるように努力しているようです。
結局、倫理規範や道徳の問題に行き着くでしょうね。
400年も前、江戸時代の儒者は、商売は商人と客が互いに利益になるように行うべきで、人を損させて儲けようとするのは商人の道に反する、と説いています。
商人には商人の、農民には農民の、職人には職人の、役人には役人の守るべき道徳律があり、もし、違法行為以外は何でもあり、と誰もが考えたなら、人を規制する法律は際限なく増えてしまい、この上なく生きにくい社会が現出するでしょう。
それを避けるためにも、違法ではなくても道徳律に反することはしない、という意識を多くの人が持つことが肝要でしょう。
しかし、それはじつは人間と言うよりも動物として難しいことも事実です。
人間も動物も欲望があり、欲望は際限がありません。
100億円の資産があっても、人はそれを150億、200億と増やそうとするでしょう。
欲望と道徳律が調和するのが理想ですが、えてして欲望が勝ってしまうものです。
先ごろ道徳を正式な授業にしようという政策がだされ、その方向で動いているようですね。
問題は何を教えるか。
ある識者は偉人の話を並べれば良い、と意見を述べていました。
私はそうは思いません。
偉人とはなんびとを指すか不明だからです。
何も新しく考え出すことはありません。
昔やっていたことを復活させればよいのです。
まずは日本人の倫理規範を培ってきた「論語」を教えること。
さらに、大乗仏教を優しく噛み砕いて教えること。
その後、神道の清き明き心と清浄を重んじる精神を神話を使って教えること。
余裕があれば百人一首あたりを丸暗記させること。
要するに、かつて日本人にとって必須の教養だったものを復活させるだけで、小中学校の道徳の時間など、すぐに足りなくなってしまうでしょう。
心配なのは、それを教えられる教師がどれだけいるかということですね。
教師の道徳教育から始めなければならないかもしれません。
道は長そうですねぇ。