文学

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春へ

気温は冷えて、雪国では雪が猛威をふるっているというのに、陽ざしは狂的な凶暴さを秘めて、春の力が勃興してきているように感じられます。 立春は2月4日。 まだ一週間も先なのですねぇ。 春を待ち望む北国の方には申し訳ありませんが、私はもう少し、冷たく澄んだ冬が続いてほしいと思っています。 春は瘴気に満ちて荒々しく、変に気持ちが沈みますから。 雪ふれば 嶺の真榊(まさかき) うづもれて 月にみがける 天の香久山 「新古今和歌集」の藤原俊成の歌です。 見事な雪景色を詠んでいます。  でも私は、そのような見事な雪景色、見たことないんですよねぇ。 柄にもなく、バブルの頃スキーに出かけたりしましたが、スキー場の雪は言ってみれば土俵のようなもの。 雪景色を楽しむというのとは違っています。 東京にも毎年雪が降り、降った直後はきれいだなと思っても、すぐに茶色い汚い雪になってしまうのですよねぇ。 かといって、雪の北海道とか、雪の金沢や新潟にわざわざ雪景色を見に出かける気は起きませんねぇ。 おっくう過ぎます。 しかし時は残酷にすぎて、春愁の気が濃厚な季節が来るのですよねぇ。 キャデラックより 春愁の 令夫人 黛...
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文学と悪

昨夜、ジョルジュ・バタイユの「文学と悪」を読みました。 この作者にしてはわりあい分かりやすかったですね。 ブロンテ、ボードレール、ミシュレ、ブレイク、サド、プルースト、カフカ、ジュネの8人の作家を論じてエキサイティングです。 文学における悪とは何か、を追究します。 それは善を善として認めたうえで悪を志向しようとする嗜好、それは行動に対する文学の態度、神に対する悪魔の態度、大人に対する子供の態度としても捉えられる、とバタイユは論を進めます。 それには善悪を分ける倫理観が生まれていなければなりませんが、はるか古代、善悪が明瞭に分かれておらず、しかし本能的にこれは悪だというイメージだけがあった時、悪は強烈な魅力を放っていたと想像します。 「行動=神=大人」を断念することによって可能となる生き方・在り方、それが完全に正当化されることは、原理的には、生きているうちにはありえないことですが、正当化されえない生を自覚して生きること、これが文学における悪だと言うのです。 そうすると、大抵の文学者は子ども=悪で在り続けることになりますね。 これはかなりしんどいことです。 人間は自然に成長していくものです...
文学

昨夜は首都圏でまとまった雪が降りました。 まとまった、とはいっても積雪4~5センチ程度。 雪国の人から見たら、何をその程度で大騒ぎしておるか、と滑稽に見えることでしょう。 しかし、首都圏には年に1回か2回くらいしか雪が降らないうえ、積もるなんてことは数年に一度しかなく、公共交通機関も個人も雪には極端に弱いのです。 首都圏の人がちょっとした雪ですってんすってん転ぶのは、踵から着地する歩き方をしているためだそうで、雪国の人はつま先から着地するように歩いているため、あまり転ばないそうです。 そうはいっても、雪が降ったからといって、突然歩き方を変えるのは至難の業で、私も何度か転んだことがあります。 幸い怪我をするほど派手にころんだことはありませんが。 雪が降るといつも思い出す歌が二首あります。 わが里に 大雪ふれり大原の 古りにし里に ふらまくは後  (天武天皇) わが岡の おかみに言ひて ふらしめし 雪の摧し そこにちりけむ (藤原夫人) 私の里に大雪が降ったが、古びた大原の里なんかに降るのは後のことだ、と藤原夫人をからかう天武天皇。 それに対し、私の岡の龍神に言いつけて降らせた雪のかけらが...
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女流官能文学者

斎藤綾子という官能の世界を描く作家がいます。 私は「愛より速く」という自身の性遍歴を綴った自伝的作品と、バリの森の奥で女性ばかり4人の小さなコミュニティーで夜な夜な互いの体を貪り合う女たちと、東京から恋人を亡くして傷心旅行に着た女性との不思議な関係性を描いた幻想的作品「ルビー・フルーツ」を読みました。 私には少々性描写がきつくて、この2作だけで充分だと感じるほどでした。 ただ、性愛を描く女流作家が、えてして肉体的愉悦以上に、人間同士の愛情みたいなものをちらつかせて、私を白けさせるのとは逆に、この作家の作品はどこか明るく、乾いていて、ドロドロの女流官能作家とは一線を画しています。 「愛より速く」は高校生の時読んだのですが、官能小説というもの、どこか喜劇めいているな、という印象を持ちました。 それは団鬼六の「花と蛇」シリーズなんかも同様で、どこか滑稽で不思議な味が、官能小説の本質なのではないかと感じたことを覚えています。 性体験を秘め事とか言いますね。 秘めているからそこには神秘性や神聖さが内在しているのであって、文章で表に出し、秘することを止めれば、滑稽に思えるのは言わば当たり前です。 ...
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阿呆陀羅経

昨夜書いた記事で、「リピーターズ」と石川淳の「至福千年」の類似を指摘しました。 その際、「至福千年」をぱらぱらと読み返し、止められなくなってしまいました。 戯作調の文体で難解な高い思想性を、幻想的な物語の中で語りつくす手法はこの作家特有のもので、後にも先にも例をみない、極めて特異な文学世界を紡ぎだす驚嘆すべきものです。 代表作にして最高傑作「紫苑物語」をはじめ、戦前の共産党の暗闘を描いた「普賢」や、戦後の焼け跡に神を見る「焼跡のイエス」など、私はかつて夢中になって読んだ記憶があります。 三島由紀夫や野間宏など、石川淳と同世代の作家たちは、石川淳をどう評価してよいものか戸惑ったらしく、敬して遠ざけるような態度をとっていました。 もし石川淳を批判したなら、その批判の刃はそっくりそのまま自分に返ってくると恐れたのかもしれません。 そしてまた、文学的評価が高いにも関わらず、あまり売れなかったことは、ひとえにわかりやすい語り口とは裏腹に、難解な思想を含んでいたためと思われます。 そんな中、はるか下の世代の文芸評論家、江藤淳は石川淳の文学世界を、一言、阿呆陀羅経と言い放ち、論評すらしようとしません...
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