文学

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保険証が更新されて、新たに臓器提供をするかどうかを記載する欄が設けられ、私は提供しない、と意思表示しました。 わが国では亡くなることを息を引き取るとも言い、文字どおり呼吸が停止して、通夜をやって告別式をやって、なお蘇らなければ火葬して、それでも四十九日を迎えるまでは、この世とあの世の中間である中有の闇を彷徨って、やっと死の儀礼を終え、死んだことになるのでした。 死ぬのではなく、死に行くものでした。 ある瞬間を境に生が突然死に替わるのではなく、少しずつ衰弱し、息が弱くなり、息を引き取るのです。 「いくら息をしようと思ってもできなくなってしまう。どうしたらいいでしょう。ほら、いくらしようと思っても・・・」 そういううちにも幾度も息がとまりかける、一所懸命力をいれて吸いこもうとするのだが。  「誰か教えてくださらないかしらん。どうしても息ができなくなってしまう」 しまいにはうかされたように、 「誰か息をこしらえてちょうだい」 といった。 これは、中勘助の「妹の死」にみられる、23歳で世を去った妹の死を見取る場面です。 凄絶な臨終の場面です。   息は、生き物のいきであり、生きるのいきであり、...
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月光

此の歌即ち是如来の真の形体なり。 されば一首詠み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。 我此の歌によりて法を得ることあり。 もしここに至らずして妄(みだ)りに人此の道を学ばば、邪路に入るべし。 上記は、「明恵上人伝記」に見られる、西行法師の言葉です。 歌を詠むことを仏道修行と考え、仏像を彫るごとく歌を詠む、という覚悟のほどが示されていますが、少々カッコつけな感じがしますね。  月を見て 心浮かれし いにしへの 秋にもさらに めぐり逢ひぬる独り草庵で月を見ていて、出家前の、月に浮かれた頃を思い出して感慨にふける歌と見えます。 西行法師らしい感傷が感じられます。 なにごとも 変はりのみゆく世の中に おなじかげにて すめる月かな こちらも月。 何事も変化してやまないのに、太古から変わらず美しい光を放つ澄んだ月を賞賛しています。 ゆくへなく 月に心のすみすみて 果てはいかにか ならむとすらむ またまた月。 こんなに月光に心奪われて、自分はどうなってしまうんだろう、と嘆いています。 自由奔放な歌で、西行法師以前には見られなかった歌風ですね。 心なき 身に...
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みみらく

「蜻蛉日記」に、死者と会える島、みみらくについての記述があります。 死者はみみらくに現れるのですが、現世の人がその島に近づくと消えてしまう、とも。 いずくとか 音にのみきくみみらくの しまかくれにし 人をたづねん(『蜻蛉日記』)  この伝説は京都で流行り、京の人々はそういう島があるなら行っていみたいものだ、と思いながら、そこへ向かおうとはしませんでした。 ここが、恐山の口寄せと大きく異なりますね。 人々はただ死者を想い、いつかはみみらくに行って再会を喜び合おう、と思っていたのでしょう。 しかし、近付くと消えてしまう幻の島です。 上陸は夢のまた夢です。 現在では五島列島の福江島と考えられ、かつて遣唐使船の国内最後の寄港地だったとか。 遣唐使は命がけの渡海でしたから、この港を出れば生きて帰れるかわからない、という思いが、伝説を生んだのかもしれません。 死者への追慕の念は純粋ですね。 盆になったら坊主が来るのでいくらか包まなきゃならん、ああ、面倒だ、というのが本音としか思えない現在の風習とはずいぶん違います。蜻蛉日記 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)角川書店角川グループパブリッ...
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重陽

今日は9月9日、重陽の節句ですね。  だからといって、菊を酒に散らせることもせず、平凡な平日にすぎません。 台風の影響か、私が住まい、働く千葉県は、急激に涼しくなりました。 今までの猛暑が嘘のような。 また暑さのぶり返しはあるでしょうが、それは夏の残照のようなもの。はかないに違いありません。 芭蕉の句に、 この道や 行く人なしに 秋の暮 というのがあります。 静かな秋の夕暮れ時の、寂しい路傍が目に浮かびます。 一方、蕪村の句で、 戸をたたく たぬきと秋を おしみけり  という、どこか滑稽味のある句が詠まれています。 四季折々を楽しむのがわが国古来のしきたりですから、秋には秋の良いものを楽しみたいものです。 秋は豊かな収穫を寿ぐ時季でもあります。 今年は秋刀魚が不漁だそうで、我が家ではまだ秋刀魚を食していません。 去年は一匹50円まで下がって、いやというほど食ったのですが、今年はまだ200円もしますね。 目黒の祭りも金がかかってしかたないでしょう。 また、秋はどこかさびしい季節でもありますね。春は春愁、秋は愁思とか言います。 人にとって過ごしやすいはずの春や秋に憂愁の情に捉われるというの...
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エコ源氏

エコロジーというのは近頃の流行りですね。  燃費が良い車に乗るとか、割り箸は使わないとか、そんなイメージですね。  しかし米国人の日本文学研究者が、奇妙なことを言い出しました。  エコ「源氏物語」研究が必要だそうです。 エコとはいっても、「源氏物語」で自然がどう語られているか、とか、紫式部の自然観とか、そういったことを研究するのではないそうです。 文化を考えるときに、例えば日本人は日本文化を日本独特の素晴らしいものだと考えます。 その米国人は、このような文化への態度を、文化は常に同時に宣戦布告なり、と言っています。  文化の独自性を言い立てるのではなく、文化の普遍性を見つけることが肝要、ということです。 エコロジーの問題を、国家に任せるのではなく、自我と他者に関する態度や、考え方そのものから変えていかなければならないそうです。  「源氏物語」のエコ研究ですが、「源氏物語」は総体的に支配できるような読みを拒絶する構成になっており、それをしようとするとtextual violenceとでもいうべき、暴力的な状況が生まれます。 「源氏物語」が持つ不安定さを読み取っていく作業が、個人的レベルの...
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