文学

 保険証が更新されて、新たに臓器提供をするかどうかを記載する欄が設けられ、私は提供しない、と意思表示しました。

 わが国では亡くなることを息を引き取るとも言い、文字どおり呼吸が停止して、通夜をやって告別式をやって、なお蘇らなければ火葬して、それでも四十九日を迎えるまでは、この世とあの世の中間である中有の闇を彷徨って、やっと死の儀礼を終え、死んだことになるのでした。
 死ぬのではなく、死に行くものでした。
 ある瞬間を境に生が突然死に替わるのではなく、少しずつ衰弱し、息が弱くなり、息を引き取るのです。

 「いくら息をしようと思ってもできなくなってしまう。どうしたらいいでしょう。ほら、いくらしようと思っても・・・」
 そういううちにも幾度も息がとまりかける、一所懸命力をいれて吸いこもうとするのだが。 

 「誰か教えてくださらないかしらん。どうしても息ができなくなってしまう」
 しまいにはうかされたように、
 「誰か息をこしらえてちょうだい」
 といった。

 
これは、中勘助の「妹の死」にみられる、23歳で世を去った妹の死を見取る場面です。
 凄絶な臨終の場面です。  

 息は、生き物のいきであり、生きるのいきであり、命はの内でした。
 粋、意気、勢い、すべて息から派生していると考えられます。

 いのちある人あつまりて 我が母の いのち死に行くを見たり 死に行くを

 
斎藤茂吉が母親の死を詠んだ歌です。 
 ここでも、死は死ぬのではなく、死に行くと表現されています。

 私が脳死による臓器移植に強い拒絶感を感じるのは、生命倫理などのような難しい考えからではありません。
 死という事態が不明である以上、それは一般庶民にも明白な可視的なものでなければ、納得が難しいと感じるからです。
 臓器移植によって命が助かる人がいるというのは承知していますが、そのような効率的で冷静な考えに、どうしても拒否感を感じます。

 できることなら、チューブで繋がれて、脳がいけなくなったからと言って、臓器を取られるようなことなく、静かに死に行きたいものです。
 また医学の進歩によって、臓器移植以上に良い治療法が確立されることを望みます。

ちくま日本文学全集 (029)
中 勘助
筑摩書房
赤光 (岩波文庫)
斎藤 茂吉
岩波書店
斎藤茂吉歌集 (岩波文庫)
山口 茂吉,佐藤 佐太郎,柴生田 稔
岩波書店

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