妄想

文学

 森鴎外は、学生であった自分、国費留学生であった自分、軍医として勤務する軍人である自分を振り返って、役者のようである、と短編「妄想」に書いています。 

 
自分のしてゐる事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めてゐるに過ぎないやうに感ぜられる。(中略)
 赤く黒く塗られてゐる顔をいつか洗つて、一寸舞台から降りて、静かに自分といふものを考へて見たい、背後(うしろ)の何物かの面目を覗(のぞ)いて見たいと思ひ思ひしながら、舞台監督の鞭(むち)を背中に受けて、役から役を勤め続けてゐる。

 
なるほど、それはそうかもしれません。
 確かな自分が今の自分以外にあって、今の自分は役を演じているに過ぎないと考えることは、今の自分を慰めるよすがにはなるでしょう。
 しかし鴎外先生のような大作家にそんなこと言われちゃ我々小市民はやってられませんねぇ。
 それになんだか今の自分のだらしなさを言い訳するような卑怯な感じもします。
 ああしてこうしてこうなった、その上に自分がいる以上、がたがた言わずに引き受ける他ありますまい。

 私は3歳で幼稚園に入園してから今日までの約40年、役者というよりは囚人のような気分がして仕方ありません。
 囚人と決定的に違うのは、自らの自由意思で一日の大半を拘束される生活を送っていることですが、どこかに拘束を受けずに生きていられる人がいるでしょうか?

 高い役職に就けば就くほど、また自営業や著述業などでも成功すればするほど、拘束時間は長くなり、しかも携帯電話やEメールの発明によって休日であれ深夜であれ、四六時中呼び出される可能性があります。
 現に私は、土曜日の夕方健康ランドで温泉につかっているとき、館内放送で呼び出されて出勤したり、休日の夜晩酌をしている時に呼び出され、ほろ酔い加減でタクシーで職場にかけつけたりしたことがあります。

 森鴎外の後ろには舞台監督がいたのでしょうが、私の後ろには常に武装した刑務官がいるようです。

 私の職場の大先輩が、定年退職の挨拶で、「ご赦免船が見えました」と言っていたことを思い出します。
 この人は言いたい放題やりたい放題で好き勝手に生きているように見えたので驚きましたが、遠島申しつけられた気分で生きてきたのだなぁと、感慨深く思いました。

 役者と言い、囚人と言い、遠島と言い、ここではないどこかに、真なる自分がいるはずだという思いは、老若男女を問わず、万人共通のものであろうと推測します。
 それが甚だしくなると、現世での幸福を諦めて、来世だったり極楽だったりにそれを求めちゃったりするのでしょうねぇ。

 で、定年退職後、その人がどういう心境に立ち至ったか、私は知りません。

 私が付き合いのある定年後の人は、大きく3つに分かれます。
 再就職なり天下りなりをして、現役時代と変わらずばりばり働いている人。
 書道や旅行、俳句やお絵かき、趣味の畑仕事など、第2の人生を謳歌している人。
 いやなのに生活のために再就職し、安い給料で愚痴をこぼしながら働いている人。

 どうせなら趣味のために老後の時間を遣いたいものですが、近い将来、定年の年齢が上がることも、年金受給の年齢も上がるであろうことはほぼ確実。
 そうなると結局、動けなくなるまで働かなければ食っていけないんでしょうね。

 でもまあ、かつて日本人の大多数を占めた水呑み百姓だって、足腰立たなくなるまで働いて、動けなくなったら姥捨て山に捨てられたんですから、仕方ないのかなとも思ったり。

 20年にも及ぶ長い不況下、おじさんの心は千々に乱れます

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)
森 鴎外
新潮社「妄想」が収められています。

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