村上春樹の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読了しました。
このところ、あまりにも長大な大ドラマを紡いできた作者が、久しぶりに、それほど長くない、物語というより詩のような作品を残したという意味で、作者は静かに、衰えの道を歩んでいるのかもしれません。
おそらく、多くの評論家は、これを失敗作と貶すでしょう。
物語としては破綻が目立つし、ラストも中途半端なものです。
しかし私は、失敗作が好きです。
なんとなれば、失敗作にこそ、物語作者の本質が炙り出されると思うからです。
多崎つくるは、高校時代、完璧な男女5人のグループの一員で、それは36歳になった今も、彼を郷愁と苦痛にいざないます。
その5人は、多崎つくる以外、全員、色が入った名前を持っていました。
例えば赤松だったり、青海だったり、そういうことです。
四人はすべて簡便に、アカとかアオとかいうあだ名で呼ばれます。
しかし多崎つくるだけは、つくる、と呼ばれるのです。
5人は名古屋で高校時代を過ごし、それはこの上もなく幸福な短い時期でした。
大学進学にあたって、多崎つくるだけが東京に出、ほかの4人は名古屋に留まります。
そして大学2年生の時、多崎つくるは理由も分からぬまま、この極めて親和的な五人グループから追放されるのです。
その深い心の傷を背負ったまま、多崎つくるは36歳になります。
その時付き合っていた2つ年上の恋人が勧めるまま、彼は4人に会って、ことの真相を探ろうとします。
そこで彼は、信じがたい事実を知るのです。
それを知ったことで、多崎つくるの何かが変わったのか、それは分かりません。
しかし誰もがそうであるように、10代で親友であった者が、30代半ばになってなお親友であり続けることが、いかに困難かを知ることになります。
じつに印象的なセリフがあります。
「でも不思議なことだね」
「あの素敵な時代が過ぎ去って、もう二度と戻ってこないということが。色んな美しい可能性が、時の流れに吸い込まれて消えてしまったことが」
これは40代半ばを迎えた私には、泣けてくるほどの真実を貫いています。
若い頃、当たり前であった輝かしい日々が、今となっては、どうやっても取り戻せないのです。
青春と言ってしまえばそれまでですが。
村上春樹は、長大な物語を紡ぐことに疲れてしまったのかもしれません。
だからこそ、こんな感傷的な、しかし魅力的な物語を描きたくなったのではないかと思います。
おそらくは失敗作と酷評されるであろうこの作品、私は失った時間の大切さを知る中年オヤジの1人として、この小説を愛さずにはいられません。
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