村上春樹の新作短編集「女のいない男たち」を読みました。
![]() | 女のいない男たち |
村上 春樹 | |
文藝春秋 |
これは、生き別れや死に別れなどで大切な女性を失った男たちの喪失感を様々に描いた短編集です。
したがって、そもそも女性と付き合ったことがない、という意味での女がいない男は含まれていません。
短編集ですから、一作くらいはそういうのも入れて欲しかったですねぇ。
どれもどこかエキセントリックで、社会の枠にはまらない男たちの喪失感が、流麗に、切なく描かれ、さすが大御所と言う感じで、このところ長編ばかり物してきた作者の筆遊びのようなところもありますが、さすがに春樹節は健在でした。
恋人にふられる、あるいはふるという形で女を失うことはよくあることですし、死に別れということも、老いた夫婦では避けられないことでしょう。
そもそも恋人も妻もいたためしが無いという人も含め、すべての男は女のいない男であるか、あったと言っても良いでしょう。
また、恋愛が成就し、結婚という事態になったとしても、妻を得ることで恋人を失うわけで、その場合、女(=恋人)がいない男になり、間をおかずして女(=妻)がいる男になることで、それは本質的に女がいない状態を経験することに変わりは無いものと思います。
恋人が妻になるということは、関係性が根本から変化するもので、そこには喜びとともに喪失感が伴うものです。
私は就職してから男の友人は出来ませんでしたが、女性の友人は多く出来ました。
これはおそらく、男というのは極めて社会的な生き物で、常に上下関係などを気にするあまり、友人たり得ないのだと感じています。
私は時折女友達と酒を酌み交わしますが、みな聡明で、美しい女性です。
そのことを同居人は指摘し、「あたしが一番ブスだ」などと僻みますが、生涯のパートナーを選択するのに容貌の美醜など、さしたることではありません。
さすがに見ていると腹が立つほど醜くてはパートナーにはなり得ませんが。
精神障害発症前、私が確からしさをもって私であった頃、私は女性たちと飲む酒を心から楽しんでいました。
まさに至福の時。
彼女たちとは程度の差はあれ、淡い恋愛感情があったと確信していますが、すでに同居人と深い関係にあった私は、友人たちの誰ともことを進めようとは思いませんでした。
かなりストレートに誘いを受けたこともありますが、私は微笑んで応えず、飲み友達としての関係性を優先したのです。
それがゆえ、今も細々と友人関係が続いています。
深い関係性で結ばれた異性を失うということは、世界の終りが来たような絶望感をもたらし、例え時の経過が傷を癒したとしても、永遠に古傷は消えないものと思います。
古傷をいくつも抱えながら生きていくということが、成長なのかもしれません。
この短編集は、古傷を思い起こさせる残酷さと、繊細な美しさを兼ね備えた、誠に愛おしい小説集でありました。