妖怪怪異

文学

 7月に入って、今日は晴れてずいぶん夏めいた一日でした。

 わが国では、夏と言えば怪談。
 怪談話を聞いて、冷やぁっとして涼もうとは、ずいぶん悠長と言おうか、まどろっこしい話です。

 現代ではエアコンをかければいつでも高原の朝のような涼気を得られます。
 そんな現代でも、夏になると怪談が流行りますね。

 私は幼いころから怖いお話や不思議なお話が大好きでした。
 それが高じて今も幻想文学やホラー映画が大好きです。

 このブログをご愛読くださる方はよくご存知のとおり、私は常軌を逸したホラー映画ファンでもあります。

 幽霊だとか妖怪だとか怪物だとか言う物は、観念上の存在で、物理的には存在しえないことになっています。
 呪術だとか魔術だとかもまたしかり。

 それはそうなのでしょうが、私は言葉が存在するかぎり、それは実体として存在する、もしくは実体として存在するのと同様の確からしさをもって人々から認知されているものと思っています。

 例えば幽霊。
 幽霊という言葉が存在するということは、幽霊なる概念が存在し、それは多くの人からこういう物と認知され、さらにごくわずかの人々はその存在を見たりして、実体を伴う存在と信じています。

 妖怪というと、それを実体を伴う存在と信じている人はぐっと減るものと想像しますが、妖怪という概念自体は、広く人々に認知されています。

 呪術や魔術もそうでしょう。

 人がそういった概念を作り出したのか、何らかの存在に示唆されてそういった概念が生まれたのかは定かではありません。

 重要なのは、そういった不思議な存在の概念が数多くの人々に認知され、例え物語のなかだけにしろ、それらを楽しんでいることです。

 人というもの、怪異や不思議を渇望しているかのごとく、それらの存在をあるいは恐怖し、あるいは喜びつつ、怪異譚に接し続けています。

 私もそうです。
 私がなぜ妖怪怪異の類や奇妙なお話を好むのか、自分でも不思議でなりません。

 現世が基本的に退屈でつまらないものだということを幼いころから予見し、であればこそ、この世ならぬ物への憧れを募らせていったのかもしれません。

 そうだとすると、私は生まれついての厭世家なのかもしれません。

 できることなら、この人間社会に地に足をつけて、くだらぬ予感を感じることもなく、現実主義的に生きたいものです。

 それが叶ったとき、私は私ではなくなり、確固とした社会人として生きられるのかもしれません。

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