芸術の暴力

文学

 今日は昼寝をしたり珈琲豆の専門店に行ったりして、のんびり過ごしました。
 こういう土曜日も、時には悪くありません。

 徒然に、好きな象徴主義の巨匠、ギュスターブ・モローの絵画集など紐解きながら。


 私が最も好む「化粧」です。

 初めて美術館で目にした時、私は30分以上この絵の前にたたずみました。
 そして女のスカートがたびたび私の前をひらつき、私は必死にそれをつかもうとしたのです。
 周りの客はさぞかし奇妙なやつだと思ったでしょう。

ギュスターヴ・モローの世界
新人物往来社
新人物往来社

 しかし、私が美術であれ文学であれ、その世界に深くシンクロすると、そういうおかしな現象が時折起こります。

 そしてそれが起きると、私は激しく疲労します。

 文学作品では、石川淳の「紫苑物語」や三島由紀夫の「鏡子の家」、川端康成の「眠れる美女」、倉橋由美子の「シュンポシオン」などでそういう現象が起こりました。

紫苑物語 (講談社文芸文庫)
立石 伯
講談社

 

鏡子の家 (新潮文庫)
三島 由紀夫
新潮社

 

眠れる美女 (新潮文庫)
川端 康成
新潮社

 

シュンポシオン (新潮文庫)
倉橋 由美子
新潮社

 読み終わって数日の間、現実にいるのか物語世界の中に入り込んだのかよく分からなくなり、日々の雑事をこなすことが極めて困難になります。

 困ったものです。

 文学や美術というものには、時折、暴力的なまでの影響力を持つ作品が存在します。

 賢明な人は、そういったものは敬して遠ざけ、実用的な書物に接するのでしょうが、私はその暴力にさらされることを快感と感じるため、あえてそういう物を求めてしまうのです。

 誠に愚かとしか言い様がありません。

 しかし私のかねてからの持論では、真実は現実社会には存在せず、物語の中にだけ存在すると考えています。

 そうでなければ、これほど多くの文学作品が生み出されるはずがありません。

 働きながらでは難しいことですが、古今東西の名作にふれて、真実の何たるかを考えたいものです。

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