早いものでもうじき9月も終り。
すっかり涼しくなりました。
時の流れを嘆く言葉はあまりに多く、聞き飽きた感がありますが、ボードレールの「悪の華」に所収の「仇敵」の一部には心打たれます。
時は生命をくらい、
この見えざる仇敵は、
われらの心を蝕みて、
とくとく生血をすすり、
肥りはびこる。
時は金なりとか、光陰矢のごとしとか、時間を大切にするよう戒める言葉はあまたありますが、時を仇敵となじった詩篇は他に知りません。
![]() | 悪の華 (新潮文庫) |
堀口 大學 | |
新潮社 |
ボードレールの面目躍如といったところでしょうか。
確かに中年期にさしかかると、疲れやすくなったり、太ったり、髪が薄くなったり白くなったり、明らかに老化と言うべき現象に見舞われます。
私の場合、髪の変化や中年太りはありませんが、明らかに疲れやすくなったし、集中力も持続しくなったし、近くの物を見るときには近眼鏡を外すようになりました。
これは誰にでも訪れる加齢による現象で、如何ともしがたいものですが、やっぱり気持ちが良いものではありません。
眼鏡を取って新聞を顔に近づけて読む様を見て、同居人は「爺くさい」と笑いますが、その同居人も、書類仕事では眼鏡を外して書類に顔を近づけていることを私は知っています。
子ども叱るな来た道じゃもの、年寄り嗤うな行く道じゃもの、とは、何に記載されていた言葉でしょうか。
人間と時の関係の本質を突いているようで、空怖ろしく感じました。
時が生命をくらい、肥えはびこるとは、隠喩めいているようでいて、けっこうストレートな表現に思えます。
だからこそ詩人は、仇敵という激しい言葉を選んだのでしょう。
そこにはいわゆる名言・格言の類に見られるような説教臭さは無く、詩人が直感的に、あるいは経験的に感得した感覚だけが存在し、だからこそ、寸鉄人を刺すような鋭さを感じるものと思います。
しかし私たちは、この恐るべき仇敵から逃れる術を知りません。
衰えゆく自身の肉体や精神に恐怖しながら、仇敵を受け入れ、付き合っていくしか生きる道が無いとは、なんとも絶望的な状況に置かれているものだと、嘆かずにはいられません。
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