今年の3月、亡き父の七回忌を迎えます。
もうあれから丸5年が経とうとしています。
死の床にあって、父は浅草寺病院の病室から、雪が降る五重塔を観ながら、「京都のようだなぁ」と声を挙げたそうです。
末期の目は、ことさらに自然を美しく感じさせるのでしょうか?
芥川龍之介の「或旧友へ送る手記」という、遺書に近い書簡には、
自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである、
という一節があります。
![]() | 或旧友へ送る手記 |
芥川 竜之介 | |
メーカー情報なし |
また、芥川龍之介の弟子ともいうべき堀辰雄の「風立ちぬ」の一節に、
自然なんぞが本当に美しいと思へるのは、死んで行かうとする者の眼にだけにだ、
と言うものがあります。
![]() | 風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫) |
堀 辰雄 | |
新潮社 |
芥川龍之介は遺書に自然の美を謳いながら、自殺してしまいます。
一方、堀辰雄は、病弱の体に鞭打って、死を避けるのではなく、それを超克しながら、一段と深い生を模索しました。
同じように末期の目に映る自然の美を称揚しながら、対照的な態度で人生に、あるいは死に向かった師弟の姿勢は印象的です。
また、夏目漱石は、亡くなる2年前に友人に宛てた手紙の中で、
天と地と草と木とが美しく見えてきます。(中略)私はそれをたよりに生きています。
と、書き残しています。
さらに、川端康成は、随想「末期の眼」で、芥川龍之介の死に触れ、
あらゆる芸術の極意は、この『末期の眼』であろう。
と喝破しています。
![]() | 川端康成随筆集 (岩波文庫) |
川西 政明 | |
岩波書店 |
芸術の極意が末期の眼であるとしたならば、凡人は末期に至らなければ真に芸術を解することが出来ない、ということでしょうか?
そしてまた、父は末期にいたって、その境地に達したということでしょうか?
それならば、父にとって、死は最後の僥倖であったのかもしれません。
しかし、まだ先の長い私には、絶望的な言説であるようにも感じられます。
自然の美しさを感じるのも、芸術への洞察も、未だ先の先ということですから。
せめては、兼好法師が自然を愛でる態度を描いた、
よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興味ずるさまもなほざりなり。
(教養のある人は、むやみに風流を好んでいるようにも見えず、楽しむ様子もあっさりとしている、というほどの意)
という言葉を胸に刻んで、自然美や芸術作品に接していきたいと、願うばかりです。
私が末期の眼を得る幸福な瞬間を迎えるその時まで。
![]() | 徒然草 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス) |
角川書店 | |
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