文学

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退行欲求

私が残酷非道な物語を好み、ホラー映画をこよなく愛していることは、このブログをご愛読いただいている方はよくご存知のことと思います。 しかし実生活となると、私はとんだ腰抜けです。 血を見ることが苦手で、また苦しんでいる生き物を見るのも全く駄目。 だからSMという趣味嗜好は理解不能です。 サド侯爵や団鬼六、マゾッホらの小説は好むんですけどねぇ。 魚の死骸に触れることができず、そのため秋刀魚を焼くことすらできません。 鯛や鯵のはらわたを取り出すことなど、怖ろしくてとてもできません。 従って焼き魚を食すためには、同居人に全面的に頼らざるを得ず、いつもからかわれています。 釣りなんてもってのほかで、そもそも私は生き物に触れることを極端に怖れています。 蛙や蛇や虫はもちろんのこと、犬や猫に触れるのも嫌で、ほとんど触れたことがありません。 若い頃はきれいなおねぇさんに触れることだけは好きでしたが、近頃はそれもなんだか不潔な感じがして嫌になってしまいました。 不潔というのは、文字通り、物理的に不潔ということで、精神性の問題ではありません。 まして性行為などというものは不潔の極みみたいなところがあって、今...
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師走

早いもので、昨日から師走になりました。 かつて支払いのツケは大晦日までに精算することとされており、このままでは年が越せない、という言い様は、庶民感覚に合っていたものと思われます。 金策に走る寒い月だったのですねぇ。 冬ごもり 小ぜにをかりて 笑はるる 正岡子規の句です。 どこかユーモラスな感じを受けますが、精算すべき日の近くに小銭を借りるというのはよほどのことだったんじゃないでしょうか。 いそがしく 時計の動く 師走哉 こちらも同じ俳人の句です。 こちらは世間一般の慌しい師走というイメージに合っていますね。 現代では、借金をしていてもその返済期限は様ざまで、年末だからと特別慌てる必要はありません。 それはきっと人々の生活にとって良いことなのでしょうが、年内に厄介ごとは片付けて、清浄な気持ちで新年を迎えようと言うわが国古来の風習が廃れるのは寂しいような気もします。 もっとも、私が返済に窮するような借金を負ったり、ツケを持ったりしたことがないから言えることなのかもしれません。 我々サラリーマンにとっては、師走はボーナスが支給される嬉しい月でもあります。 ここ数年ボーナスは減少傾向ですが、そ...
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憂国忌

昨日、11月25日は三島由紀夫の忌日、憂国忌でした。 45歳、小説家としてまだまだこれからという時期になんであんな死に方を選んだのでしょうね。 一説には、一緒に自決した弟子の森田必勝との情死であったとも言われています。 嘘か真か、三島由紀夫の遺体を解剖したら、直腸から森田必勝の精子が出てきたとか。 彼が同性愛者であったことは公然の秘密ですが、結婚して子どももいたことを考えると、バイセクシャルだったと考えるのが自然でしょうね。 憂国忌の元になった小説「憂国」は国を憂える物語というより、憂国の情を持つ将校がひたすら情交を繰り広げるという、官能小説に仕上がっています。 そしてまた、市ヶ谷駐屯地に向かう直前に書きあげた「豊饒の海」の最終作「天人五衰」のラストの、なんと乾いてシニカルであることでしょう。 とてもこれから市ヶ谷駐屯地に出かけて自衛官にクーデター決起の檄を飛ばし、夢破れて自決する人の文章とは思えません。 激情に駆られた風がなく、極めて冷静なのです。 もともと三島由紀夫の小説は人工美の極北にあるもので、熱い感情とは無縁でシニカルなものです。 想像するに、彼は何も天皇を中心とする国家主義...
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秋思

今日も見事な秋晴れでした。 しかし私の心はどこか曇りがち。 三連休の最後だからでしょうか。 曇りがちの心を奮い立たせようとして、午後、近所を散歩しました。 昼までは風がなかったのに、午後になると冷たい風が吹き始めました。 つめたきは 風にありけり わがこころ 白布のごとく 吹かれたるかな    風を頬に受けて歩いていると、若山牧水のこんな歌が知らず知らずのうちに心に浮かびました。 私の心もまた、冷たい風に吹き飛ばされそうな気分になりました。 また、同じ歌人の、 骨と肉(み)の すきをぬすみて 浸みもいる この秋の風 しじに吹くかな という歌が続いて口をついて出ました。 白楽天の「陵園妾」でしたか、春愁秋思 という詩句があったように記憶しています。  辞書には、  春の日にふと感じる物悲しさと、秋にふと感じる寂しい思い。よい気候のときに、なんとなく気がふさぐこと。また、いつも心のどこかに悲しみや悩みがあること。  と、ありました。 人間にとって過ごしやすいはずの春や秋に、物悲しさや寂しい思いを強くするのはなぜでしょうね。 私は子どもの頃から、春愁は強く感じ、秋思はあまり感じませんでした。...
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喪中葉書

今日は寒いうえに冷たい雨が降り続いています。 先週注文した喪中葉書ができたので、家に閉じこもって喪中葉書の宛名印刷をしています。 といっても、わが家の年賀状は10年も前から筆王で作っていますので、そこに保存されている宛名をただ印字するだけ。 簡単なものです。 例年この時期になると、必ず何枚か喪中の葉書を受け取ります。 多くは友人や同僚の親が亡くなった、というもの。 年齢のせいもあり、ここ数年、親を亡くしたという喪中葉書を受け取る枚数が増えてきています。 それがとうとう、今年は出す側になってしまいました。 そう思ってみると、この冷たい雨が涙雨に思えてくるから不思議です。 人間、生まれるまでは今生では影も形もありませんが、ひとたび生まれれば、約80年、飯を食っては糞をひねり、仕事と称する雑事にかまけ、気がついたら骨になって冷たい石の下。 しかし生まれる前と決定的に違うのは、骨ばかりは何万年も残ること。 化石になってしまえば、人間の時間感覚ではほぼ永久的にその人が生きた証が残ることになります。 死んだら生まれる前と同じになるだけで、地獄も極楽もあるものか、という人がいます。 あの世があるかな...
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