文学

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道歌

和歌に道歌というジャンルがあります。 和歌というともののあはれや季節感、恋情などを詠う雅なものという印象がありますが、道歌は仏教の教えや道徳などを示す抹香くさいものです。 正直、私はあまり好みません。 しかし、正月、仕事始めの日くらい、そういう歌に接して心を引き締めることも必要かと思います。 怠らず 行かば 千里のはても見ん 牛の歩みの よし遅くとも  詠み人しらず 怠けずに進めば、牛のように遅い歩みでも千里までも進むことができる、という意かと思います。 日々の地道な努力を奨励する道歌ですが、いかにも無粋な歌ですねぇ。 では、こういう仕事始めの句はいかがでしょう?  天は晴れ 地は湿(うるお)ふや 鍬始(くわはじめ)   正岡子規 ここにはもののあはれは感じられませんが、たくましい農民の仕事始めの様子が大らかに、生き生きと活写されています。 説教くさい感じは微塵も感じられませんが、新年も努力しようという気分が自然に湧いてきます。 文芸に限らず、絵画でも音楽でもそうですが、主持ちの芸術はつまらないですねぇ。 道歌も仏教や道徳の普及のため、という主持ちの和歌です。 ためにする芸術のつまらな...
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迎春

新年あけましておめでとうございます。 このブログを愛読くださる皆様全てのご多幸をお祈り申し上げます。 私は今日親戚の家で昼から新年会。 明日は夜実家で新年会です。 今年は、 目出度さも ちう位也 おらが春 という小林一茶の句のような気分が日本国中を覆っています。 小林一茶は、ことしの春もあなた任せになんむかへける、と俳文集「おらが春」につづっています。 阿弥陀仏による他力本願を深く信仰していた彼は、正月を迎えるのもあなた任せ、つまり阿弥陀仏の力によるものだと言っているわけで、大海を小船で漂流しているような人の生において、人間の自力では何事もどうにもならないと、信仰告白をしているものと思われます。 私は浄土教の教えである他力本願を信仰するものではありませんが、小林一茶の信仰告白には心打たれます。 今年一年を無事に過ごせるかどうかは、それこそお釈迦様にもわかるめぇと思いますが、今日一日だけは働くのだ、明日は知らんのだ、という一日出勤を積み重ね、お給料をもらいたいと思っています。 幸い今の部署は性に合っているようで、苦痛ではありません。 それどころか、たまには面白いと思うことさえあります。 ...
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寒波

連日、日本列島に厳しい寒波が襲っています。 北国は大雪。 名古屋でさえ、積雪8センチを記録しました。 首都圏では晴れてはいますが、冷たい北風が吹き荒れています。 なんとなく、心も荒むというものです。 冬蜂の 死にどころなく 歩きけり  村上鬼城 村上鬼城は江戸時代末から昭和初期に活躍した俳人です。村上鬼城です。 恵まれた境遇ではなかっため、困窮した生活や人生の諦念、弱者や病気への苦しみなど、独特の倫理観で憐れみ、哀しみを詠った句が多いのが特色とされています。 上の句、なかなか迫力ありますねぇ。 冬の蜂の生への執着と、迫りくる死が、寒々しい冬の妖気とともに私たちを圧倒します。 下手なホラー映画より怖いですねぇ。 俳句という世界最短の定型詩が持つ力強さを想わずにいられません。 鷹老いて あはれ烏と 飼はれけり 村上鬼城 こんなことってあるんでしょうか。 カラスと鷹を一緒に飼うなんて。 ここにも、老いた鷹という弱者への視点が、不気味なまでに提示されています。 冬は厳しい季節であるとともに、お正月やクリスマス、バレンタインデーなど、楽しい行事も色々あります。 また、雪景色は都会でも田舎でも、世...
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高等遊民

今日は格別寒かったですね。 いったい、日本家屋は夏をしのぎやすいように出来ているので、冬はかなりしんどいです。 私が現在住まいする千葉市のマンションは鉄筋鉄骨コンクリート造りの上、リビングが南を向いているため、日中は暖房を必要としません。 しかし、私が25歳まで過ごした実家は規模こそ大きかったものの、木造で、ずいぶん寒かったように思います。 西行法師の冬の歌を二首。 年暮れし そのいとなみは 忘られて あらぬ様なる いそぎをぞする 年が暮れた、その時の恒例の行事は忘れてしまって、出家した今は昔と異なるさまの正月の準備をするのだ、というほどの意かと思います。 じつは仏道修行にはあまり熱心ではなかった西行法師。 それでも仏門に帰依したときには殊勝な心がけだったようです。 おかしいですね。 さびしさに 堪(た)へたる人の またもあれな 庵ならべむ 冬の山里 こちらは西行法師らしいですねぇ。 寂しさに耐えている人が私のほかにもいればよいな、庵を並べて住もう、冬の山里で、といったほどの意かと思われます。 西行法師、山中で寂しさのあまり死体をかき集めて人造人間を作り出した、という伝説が残っているほ...
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木枯らし

関東の冬といえば木枯らし。 今日も冷たい北風が吹いています。 この風さえなければ、関東の冬は温暖で、長い秋と言ってもよいくらいでしょう。 しかしこの北風が、関東の冬を厳しく彩っています。木枯らしに 吹き合すめる 笛の音を 引き止むべき 言の葉ぞなき  「源氏物語」第2帖、「帚木」に見られる和歌です。 思いがけない男性から、木枯らしに合わせて笛の音と優しい声色で口説かれ、思わず「寂しく1人でいる私には、貴方にずっと側にいて欲しいだなんて、言いたくても言えません」という内容を彼女が浮気心で詠んだ和歌です。 「帚木」といえば、有名な雨夜の品定めが行われる帖ですね。 大の男が、しかも高位高官が雨の夜に寄ってたかってこういう女は良いの悪いのと、おふざけがすぎますねぇ。 でもちょっとうらやましいような。 大体「源氏物語」を読んでいると、光る君をはじめ、貴族たちは仕事らしい仕事をしていません。 あっちの女こっちの女とふらふらし、たまに宴会で舞を舞うと、光る君の舞は格別だなどと褒めそやされています。 しかるべき地位に生まれれば、この世は極楽でしたでしょう。 しかし一方、貧しい農民に生まれれば、一生地べ...
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昨日も今朝も路上に停めた車のガラスは、真っ白に凍っていました。 私はこれを、車屋で買った霜取りのための三角定規のような板で削り落しました。 削る傍から氷が手に降りかかり、冷たいことこの上ありません。 車通勤でも手袋が必要ですねぇ。 雪が降らなくても、公園や畑は霜がおりて真っ白です。 田んぼがあれば水が凍るんですかねぇ。 でも公園の池はかろうじて凍っていませんでした。 葦辺行く 鴨の羽がひに 霜降りて 寒き夕は 大和し思ほゆ 「万葉集」所収の志貴皇子の和歌です。 葦の生えた水辺を行く鴨の羽に霜が降って、こんな寒い夕暮れには大和のことを思います、といったほどの意かと思います。 私は冬の鴨を観察したことがありませんが、鴨の羽にも霜が降るんですねぇ。 鴨にしてみたらたまったものではありません。 そういえば、極寒の地の映像を見ると、人間の眉毛やひげにもつららが下がっていますもんねぇ。 寒々した風景を見て想うのは、故郷なのか、都会なのか。 歌が詠まれた当時は大和が都会だったわけで、志貴皇子にとっては、おそらく都会でもあり故郷でもあり、愛しい我が家が在る暖かい場所なのでしょうねぇ。 今となっては、寒...
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冬の日

凍てつくような曇り空が広がっています。 冬の訪れは急激で、私の精神を冒すためのようにも思われます。 それでも私は、私のたましいを守らなければなりません。 長い精神障害の末に、どんな病気であれ、家族も医者もあてにはならぬ、あてになるのはおのれ一人だと知ったからです。 西脇順三郎に「近代の寓話」という詩集があります。 現代詩を好まない私ですが、この詩集に収められた「冬の日」という詩は、私のたましいの琴線にふれるようです。或る荒れはてた季節果てしない心の地平をさまよい歩いてさんざしの生垣をめぐらす村へ迷いこんだ乞食が犬を煮る焚火から夏の終わりに薔薇の歌を歌った男が心の破綻をなげいている実をとるひよどりは語らないこの村でラムプをつけて勉強するのだ「ミルトンのように勉強するのだ」と大学総長らしい天使がささやくだが梨のような花が藪に咲く頃まで猟人や釣り人と将棋をさしてしまったすべてを失った今宵こそささげたい生垣をめぐり蝶と戯れる人のため迷って来る魚狗(かわせみ)と人間のためはてしない女のためこの冬の日のために高楼のような柄の長いコップにさんざしの実と涙を入れて             心が弱ってし...
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文学上の虐待

わが国の文学作品中に子どもへの虐待が登場するのは、明治43年の長塚節作、「土」が初めてです。 怒鳴りながら彼は突然おつぎを殴った。おつぎは麦の幹とともに倒れた。おつぎは倒れたまましくしくと泣いた。 それまではわが国文学中に子どもを殴るという行為は見られません。 戦国時代の宣教師ルイス・フロイスや明治のお雇い外国人は、日本では子どもへの体罰が見られないことに驚嘆の意を表明していますが、文学上もそれらの指摘と一致しています。 明治末期になって子どもへの体罰が見られるようになったのはなぜでしょうね。 欧化政策が当たって、教育にも欧米流の体罰で躾ける流儀が定着したのでしょうか。 それとも新興帝国主義国家として列強の一角に名を連ねるにあたり、兵士でもある国民を軍隊流の鉄拳制裁でしつけようという風潮が興ったのでしょうか。 今となってはわかりません。 しかし子どもへの体罰・虐待は法がこれを禁止しているにも関わらず、一部教師などは愛の鞭だなどと倒錯したセリフを吐いて、これを正当化しています。   大きな間違いです。 体罰は法律違反なのです。 許されるのは、生徒が明らかな害意をもって襲ってきた場合に正当...
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歌合せ

寒い曇りの休暇。 出かける気になれず、小林恭二の「短歌パラダイス」を読みました。 小林恭二というと小説家であり、俳句もよくする俳人でもあり、というイメージがありますが、和歌にも強いんですねぇ。 これは某日、熱海の旅館で行われた現代を代表する歌人たちによる歌合せの報告です。 歌合せとは、すなわち歌合戦。 二手に分かれたチームの歌人が和歌を詠み合い、審判である判者(はんじゃ)が双方の意見交換を聞いた上で優劣を決するというものです。 詠む人を方人(かたうど)、自チームの応援のため意見交換の際、自チームの和歌を褒め、敵チームの和歌をけなす人を念人(おもいびと)と呼ぶそうです。 意見交換に方人は参加できませんが、方人と念人は交代しますので、二つの役割をこなしながら、チームのみなが和歌を詠み、判定されるというわけです。 当然のことながら、自チームの和歌が劣っていると思っても、念人は自チームの和歌を褒めなければなりません。 このあたり、おのれの思想と関係なく、与えられた意見を主張するディベートに似ています。 弁護士なんかとも似ていますね。 室町時代くらいまでは盛んに行われ、「七十一番職人歌合」などの...
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謀反

西暦658年の12月13日、有間皇子が謀反の疑いをかけられて処刑されました。 享年19歳。 従兄の中大兄皇子に命を狙われていることを知り、精神を病んだふりまでして命長らえようとしましたが、中大兄皇子の意を汲んだ蘇我赤兄に謀反を唆され、中途半端な回答をしたことが命取りになりました。 中大兄皇子から尋問された折、「天と赤兄と知らむ、我もはら解らず」と、悔しい胸のうちを一言だけ述べたそうです。 「万葉集」に、皇子が亡くなる前の歌が二首載っています。 いは代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む 願いかなって無事であったなら、また帰って来てこの松を見よう、というほどの意ですが、刑場に連れて行かれる途中で詠んだ歌と知れば、哀切極まりないものです。  家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る これも切ないですねぇ。 家で食事をする時は食器に飯を盛るが、旅の途中なので椎の葉に盛る 、という、なんていうことのない歌のようですが、その旅が死地に向かうものなんですからねぇ。 昔の皇族は戦国大名のように、身内同士で血で血を洗う戦いを続けていたのですねぇ。 今の平和を祈る天皇と...
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人外境通信

中井英夫といえば、大長編ミステリー「虚無への供物」が有名ですが、私はむしろ短編にこそ、この作者の面目が現れていると思います。 そこで、「人外境通信」を昨夜読みました。 独立した短編が編められ、最後には最初の作品と同じモチーフに戻っていく、という心憎い手だれによる至芸です。 そのモチーフは、薔薇。 まず、「薔薇の戒め」というタイトルで、薔薇にまつわる不思議な物語が展開します。 その後の短編でも三角関係の悲劇を椅子の視点で描く「笑う椅子」、金色の瞳を持つ青い猫に魅せられた女性の奇妙な経験を描いた「青猫の惑わし」など、まさにこの世ならぬ人外境の出来事を描いて読者を幻惑します。 最後は「薔人(ばらと)」。 薔薇というモチーフがどの作品にも流れています。 人工的に彩られた、どこかに存在する影の王国、人外境。 そこに彷徨い込んだ時、人はそこが人外境とは気付かぬまま、奇妙な経験をするのです。 しかし私たちの日々の生活を思う時、奇妙な事件やくだらぬいさかいが頻発し、理想的な人間社会が存在すると仮定してみると、こここそが人外境なのではないか、という疑念に捉われます。 「人外境通信」は「とらんぷ譚」の三作...
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感じる

学生の頃、所属していた浪漫文学研究会の宴会で、教授と助手がつまらぬ論争を繰り広げるのを耳にしました。 助手は、文学研究者は感じることを止め、自然科学者のような醒めた態度で文学作品にあたるべきだ、との論を繰り広げました。 それに対し教授は、感じることを止めたら文学研究は不可能であるし、そもそも感じることを止めるなどということは、人間には不可能であり、人間精神への冒涜である、と諭しました。 しかし助手は持論を曲げず、物語作者とその享受者に感じることを任せ、研究者は感じるべきではない、と言い張りました。 これは実におもしろい論争でした。 助手が言うことも分からないではありません。 若き研究者が、研究の神髄を真理の追究にあると考え、そのためには感情が邪魔になる、というわけですから。 それに対し、和歌から日本民俗、近現代文学まで広く研究する教授は、それは文学の神髄から外れる、と考えたのでしょう。 教授は我々学部学生一人一人に意見を求めました。 私は、料理を味合わずしてその見た目や栄養素だけを研究するのは不可能である、と応えました。 多くの学生も教授の論に賛成しました。 その半年後、助手は北海道の...
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冷奴

今日はめっきり冷えました。 明日はもっと寒いとか。 いよいよ冬本番ですね。 私は熱いお茶やコーヒーを好みません。 真冬でもアイス・コーヒーや冷たいお茶を飲んでいます。 なんだか冷たいほうが口の中がさっぱりするからです。 猫舌というわけではないんですけどねぇ。 そこであえて、夏の冷たい食い物を季語にした句を。 放蕩の ふぐり老いゆく 冷奴  角川春樹 私は角川春樹の句をけっこう好んでいます。 男らしく、言い切り系の句が多いのですよねぇ。 ふぐりとは睾丸のこと。 放蕩を重ねた男、おそらく作者自身でしょうが、その精が衰えを見せ始めた年頃に冷奴を食う、という句で、哀愁漂いますねぇ。 特に私は精神障害者になってから、めっきり精が衰えているので、身につまされる思いです。 まだ老けこむには早いんですが。 夏の句なので当然冷奴を食うのは暑い盛りなのでしょうが、私はあえて、冬、暖房の効いた部屋で食う冷奴の情景を思い浮かべたいですねぇ。 あぁ、今日はおのれのだらしなくなった下半身を哀しみつつ、冷奴で焼酎のロックでも飲みたい気分ですねぇ。海鼠の日―角川春樹獄中俳句角川 春樹文学の森白い戦場―震災句集角川 春...
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恐怖症と谷崎文学

世の中には様々な恐怖症を持った人がいますね。 一般的なところでは、高所恐怖症や対人恐怖症、水を異様に怖がる人や、暗い場所を怖がる人、日本にはあまりいませんが、欧米では広場恐怖症という人が大勢いるようです。 私は病気というほどの強い恐怖ではありませんが、斑点恐怖症と先端恐怖症と言われるような気持ちを持っています。 斑点恐怖症とは、虫がたくさんあつまっている所とか、イクラ丼とか、大雨とか、粒々がたくさんあると、ぞっとすることです。 この前ペットボトルのお茶を箱で買って、ふたを開けたらペットボトルの蓋がきれいに並んでいるのが粒々に見えて、非常に不快な思いをしました。 ひどい人になると粒々を見ただけで熱が出たりするらしいですから、不快に思う程度はなんてことないのですが、やっぱり気になります。 先端恐怖症を意識したのは、中学生の頃、谷崎潤一郎の「春琴抄」を読んだときですね。 「春琴抄」は盲目の三味線の美人師匠と、それに仕える丁稚の佐助の物語ですが、ある時春琴が熱湯を浴びて顔に大やけどを負い、それ以来人と会おうとせず、佐助と会うことまで嫌がるに及び、春琴を慕い尊敬する佐助は、自ら針で目を突いて盲目...
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ハムスター

今年度末で、就職して丸20年が経過します。 その間ずいぶん色々なことがありましたが、何かもどかしい思いを禁じ得ません。 20年、走ってきたことは間違いないでしょう。 それによって体力がついたか、あるいは消耗したかは不明ですが。 通常、走ればどこかへ行くものです。 しかし私は、ケージの中で回し車を走り続けるハムスターのように、同じところをただぐるぐる回っていただけのような気がしています。 仕事に関する知識や経験、人間関係、そういったものは蓄積されていますが、無駄に蓄積されただけで、一歩も進んでいないような気がします。 ハムスターを主人公にした児童文学に、「フレディ」シリーズという作品があります。 このフレディの思いが、不思議なほど私の心に刺さります。 ケージの中で回し車を回して一生を終えるなんて、ごめんだね。 いつか自由になれるっていう『ハムスター伝説』を信じて待ってたってだめさ。 自由を手に入れる方法は、自分で考えて、自分で探し出すんだ。 まあ児童文学ですから、子供騙しといえば子供騙し。 しかし文学というもの、もともと大人の男の嗜むものではありません。 差別的表現になりますが、あえて言...
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