文学

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少女の友

昨日は弥生美術館に「少女の友」展を観に行きました。 「少女の友」は、明治41年から昭和30年まで、実業乃日本社から刊行されていた少女向けの雑誌です。 美しい表紙、川端康成や吉屋信子などの充実した執筆陣による、少女の心のひだや女学生生活を描いた小説、さらには投稿欄や付録の充実など、今見ても豪華な内容です。 今でも、年配の方のみならず、多くの若いファンを惹きつけています。 ただ、戦時中、軍の広報雑誌のようになってしまったのは、展示を見ていても痛々しい感じがしました。 時代が暗ければ暗いほど、少女は幻想の美に酔いたいものなのに。 美術館には、和服の女性や女子高生など、多くの女性が訪れていました。 中年男の私は、場違いに苦しみながら、美しいイラストや時代背景の解説に酔いました。『少女の友』創刊100周年記念号 明治・大正・昭和ベストセレクション実業之日本社,遠藤 寛子,遠藤 寛子,内田 静枝実業之日本社
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霧の中

激しい雨が降っていますね。こんな秋の日には、怖ろしい事件が起きそうな予感がします。 もう三十年も前になりますか、パリで日本人留学生がオランダ人の女子大生を殺害のうえ肉を食らう、という「羊たちの沈黙」のような事件がありました。犯人の佐川一政はフランスの裁判で心神喪失が認められ、無罪となって日本に帰ってきました。 そして書き上げたのが、「霧の中」です。事件のことを、グロテスクなまでに、細々と描写しています。 なぜこんな文章が書ける人が心神喪失なんだ、と中学生ながら不思議に思った記憶があります。そのうえ、カニバリズムの大家を自称して、様々な評論活動を行っています。判決は確定していますから、無罪である以上、法律的に何の問題もないのですが、遺族の感情を考えると、いやな気持ちになります。 いやな気持ちになりたいときには、お勧めの一冊です。霧の中佐川 一政彩流社
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死との対面

安岡章太郎のエッセイ「死との対面」を読みました。 この人の小説は、中学生の頃、熱心に読みました。洒脱な作品が多いな、と感じました。 現在、90歳ちかくですが、まだ現役ですね。たいしたものです。 「死との対面」では、老作家の徒然の物思いが、語られています。私の倍以上生きている人の言葉には、重みがあります。 様々な病気を克服し、長生きするにつけても、旧友が次々亡くなっていく、いよいよ次は自分の番だ、という覚悟のようなものが感じられます。 猫だって長生きすれば猫又になるとか。それなら作者はもはや仙人の域でしょう。死との対面―瞬間を生きる安岡 章太郎光文社
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枕草子に、「秋は夕暮れ。夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすのねどころへ行くとて、みつよつ、ふたつみつなどとびいそぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いとちひさく見ゆるはいとをかし。日入りはてて、風の音むしのねなど、はたいふべきにあらず」 と、あります。 秋も十月なかばを迎えると、日の暮れるのがやけに早く感じますね。秋刀魚もそろそろ終わり。すべてが冬に向かって、突き進んでいるかのごとくです。 そして冬がしつこいのに比べて、秋の短いこと。  今日はなんだか、憂愁のようです。 こんな秋の日は、燗酒がひときわ旨いというものです。枕草子 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)角川書店角川書店
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世の中に、男と女がいればこそ、恋は人生の必定。誠にまれな例なれど、同姓同士の恋もまた必定。 私は齢7つにして、初恋。唇も重ねた。 幼い恋は美しく歌われ、それもまた必定。 なれど幼い恋は幼いほど、好奇心と衝動が先走り、意外や、どろどろにのめり込む気味あり。 オフコースに、「君のいない毎日は、自由な毎日。あれを愛というなら、もういらない」の歌あり。高橋幸弘に、「愛されすぎると、逃げたくて」の歌あり。誠に男というもの、追われることが嫌いらしい。 而して若山牧水に、 逃れゆく 女を追へる大たはけ われぞと知りて 眼くらむごとし  の歌あり。   男が女を追う。これを恋と言う。 ストーカーなど知らぬ、オスはメスを追うべし。草食系だのと、片腹痛し。 婚活などと、馬鹿馬鹿しい。 古式ゆかしい男女の習いを知れば、そんなことは自然に任せるべし。
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死の文学

文学と死は、なんと離れがたく、抱き合っていることでしょう。 あまたいる自殺をとげた文学者。 あるいは情死。または孤独死。自衛隊の決起を促して死んだ文学者もいました。 文学者が死を甘美なものと捉え、そこから抜け出せなくなるのは、故なしとしません。死は未知であり、死を求める者の心に従って、自在に変化し、その魅力的な姿を現します。 私は、精神の病を患い、渇きにも似た切羽詰った心で、自死を模索したことがありました。しかしそれを実行しなかったのは、死は、私にとって魅力的でありながら、あまりに恐ろしいことであったからです。狂気のなかに、わずかに正気が残っていたのでしょうか。 そして今にいたるも、情けなく、生き残っています。 自死をとげた原民喜に、「夏の花」という小説があります。 自身の被爆体験を描いた小説です。 悲惨な被爆地の状況と、被爆者の切ない心情を描きながら、その文章はあまりにも美しいのです。 戦後最も美しい散文と、評されたほどです。 いわば死にいく他者と、死に抵抗する我を描いた小説で、それはまさしく、死の文学です。 もっとも痛ましい状況を、もっとも美しく歌わずにおられなかった作家の心情を思...
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雨が降っています。明日も雨だとか。季節のかわりめに、雨はつき物ですが、なんとなくだるくなって、憂鬱になります。抗うつ薬を三種類、気分安定剤を一種類、抗不安薬を一種類飲んでいますが、ちっとも効いてくれません。机にむかっていても、果てしない奈落の底に落ちていくような錯覚に囚われます。 秋雨や 夕餉の箸の 手くらがり 永井荷風の句です。秋雨で、窓から見る景色ももう暗く、淋しい。晩飯も手暗がりという、秋の憂愁と孤独を詠んだ句と見ました。 しかし、今日の私には、句をひねるほどの余裕もなく、ただ、この世ならぬものが自己のたましいに入り込んでくることへの恐怖に、慄いているのです。永井荷風の本
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向島

だいぶすずしくなったので、昨日は向島界隈を散歩しました。 まずは東向島駅に隣接する東武博物館で東武電車の古い列車に乗ったりして遊び、そのあと街を歩きました。 永井荷風が「濹東綺譚」で描いた昔の私娼街ですが、今は花街らしい面影はありませんでした。小さな古い商店や家、アパートなどが立ち並ぶ、いわゆる下町です。 久しぶりに、リヤカーを引いている人や、腹巻にステテコの老人、浴衣で闊歩する老旦那などを見ました。タイムスリップしたかのようでした。 しかし、あまりにごみごみしているので、住むのは無理かな、と思いました。 白鬚神社に詣で、帰路につきました。
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エヴリブレス

瀬名秀明が昨年出版した、「エヴリブレス」を読みました。 現実世界と、無限に存在するコンピュータ上の仮想社会との共鳴を描いています。 例えば、私が今日死んだとします。私のこれまでの記事や性格、行動をプログラミングした人口知能(仮とびお)に、現実の出来事や新しく発表される映画や小説の内容をダウンロードして、仮とびおにブログを更新させれば、このブログは、私の死後も、半永久的に続くことになります。 さらに、無数に存在するブログやホームページにも同様のことをし、その内容をリンクさせれば、仮想社会が成立します。 この小説では「BRT」という仮想現実ソフトに自身の仮の姿を投影させ、人口知能に「自動モード」という機能を付加します。もちろん手動で現実の本人が仮の姿を操ることもできますが、放っておけば「自動モード」で「BRT」の人物は勝手に生きていきます。しかも「BRT」には死がなく、人物を消去する機能が意図的に付与されていないので、現実社会の人間が死ねば、必ず、「自動モード」で永遠に生きていく運命にあります。 しかも、現実社会の投影である「BRT」の住民も、自分たちの世界の下位に「BRT」を持つので、階...
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1Q84

先日、村上春樹のベストセラー「1Q84」を読みました。 同じ作者の手による幻想文学としては、「羊をめぐる冒険」や「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」のほうが小説としての完成度は高いように思います。 今回の作品は、より思索的というか、哲学的という感じがします。 どこか思わせぶりなような。 しかし私は、千ページにも及ぶ長編を、二日で読んでしまいました。 読ませる力は圧倒的です。 作家志望の予備校講師と、元同級生の女テロリストの話が、並行して描かれます。二人は最後まで直接からむことはありませんが、互いを思いながら、それぞれの方法で、あるカルト集団と戦います。 石川淳を思わせるような、精神の運動が描かれます。 一読の価値はあるというべきでしょう。1Q84 BOOK 1村上 春樹新潮社1Q84 BOOK 2村上 春樹新潮社1Q84 BOOK 3村上 春樹新潮社1Q84 1-3巻セット村上 春樹新潮社
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三行書き

三行書きの短歌は、石川啄木が有名ですね。 昨日の新聞に、啄木の親友で、新聞記者であり、歌人でもあった土岐善麿という人が紹介されていました。 じつは三行書きの短歌を始めたのは、啄木ではなく、土岐善麿だったそうです。知りませんでした。 その人の歌です。 哀しきは、 職業のある、その事を幸福とする、 いまの、心かな。 サラリーマンとして働きながら歌作を続けた歌人らしく、勤め人の哀感がよく出ていますね。 私は、毎朝、職場に行くのが嫌で、今日こそ休もう、今日こそ休もうと思いながら、出勤しています。 そのとき言い聞かせるのが、「今のご時勢、仕事があるだけありがたい」という言葉です。 それはそうなのですが、そう思うことは哀しいですね。 生活の糧を得るのが仕事です。 仕事をするのは生きるための手段であって目的ではありません。 そのことに感謝する、というのは何か変ですね。 勉強したり、面接を受けたりして、自分の力で得た仕事です。 仕事があることが有難いのではなくて、給料をもらえることがありがたいのです。
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戦国イケメンパラダイス

NHK大河ドラマ「天地人」に、いわゆる「腐女子」が萌えている、と聞きました。 「腐女子」とは青少年の同性愛を扱った漫画や小説を愛好する女性だそうです。年をとると「貴腐人」になり、さらに進むと「汚超腐人(おちょうふじん)」と呼ばれるそうです。 私は、古くは「モーリス」「覇王別姫」、近頃では「ブロークバックマウンテン」など、男性同性愛を扱った作品をよく見てきました。 そこには、映像美だけでなく、差別の問題や、社会性、愛情など、様々な問題が浮きぼりになっているからです。 しかし、「腐女子」は、美的なものと、性愛だけを求めているようで、違和感を感じます。 ある人に言わせると、「天地人」は最高にエロいそうです。
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遊び

明日から5連休です。気もそぞろ、仕事に身が入りません。 私は、遊びや、ごろごろ気ままに過ごすことが好きです。努力するのは、面倒くさい。仕事はちゃっちゃっと片付けて、遊びたいものです。 「梁塵秘抄」に、有名な歌があります。 遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけむ、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ この歌は、色々な解釈がなされてきましたが、素直に、子供が遊ぶ姿を大人が微笑ましく見ている、と解するのがよいように思います。 大人になると、飲む打つ買うとか言って、遊びにネガティブなイメージがありますが、スポーツや観光、読書や観劇も遊びですね。 近頃はカラオケでがなりたてるのを好む人も多いようです。いわゆる「ヲタク」の人も、大した趣味人でしょう。 仕事に打ち込んで夢中になる、というのはたいへん幸せなことですが、大方の人は仕事なんかせずに、ふらふらと遊んで過ごしたいものだと思っているのでないでしょうか。少なくとも、私はそうです。 夏目漱石が描いた「高等遊民」というのが、理想でしょうか。
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物狂い

季節はもう、春から初夏に向かっているようです。昨日は暑かったですね。 春といえば、春の珍事やら、変質者が出るやら、浮かれた物狂いの季節でもあります。私は、物狂いは春の終わり、初夏を直前にして現れるように思います。 いい年をしたアイドルが、全裸で騒いでいたなどというニュースは、まさにそれです。  「徒然草」第十九段に、 「ひときは心も浮きたつ物は、春のけしきにこそあめれ」とあります。昔から、春になると人は浮き立つのですね。 与謝蕪村に、 「公達に 狐化けたり 宵の春」 という句があります。 春の宵、貴人を見かけたが、あれは狐が化けているのだろう、といったところでしょうか。 なんとなく浪漫的で、幻想的な感じがして、物狂いの春にぴったりですね。 また、春は悠然としたイメージもあります。 同じ蕪村の句で、 「春雨の 中を流るる 大河かな」 というのもあります。 雨が降っても、そんなことには構わず、悠然と大河が流れている、という感じです。 私は東京の東端を流れる江戸川のほとりで生まれ育ちました。春の雨を見ると江戸川を思い浮かべます。 それは物狂いとは対照的な光景です。
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言語

ドナルド・キーンは、エッセイのなかで、国文学者のなかには外国文学をちっとも勉強せず、日本独特の表現とか美的感性とか評する者がいる、と非難しています。日本語にしか存在しない表現というのは、おそらく皆無でしょう。よく英語は論文向きで、日本語は詩歌に向いているとか言います。私は横文字は苦手で、外国文学はもっぱら翻訳で読みますから、よくわかりません。 国文や国史を学ぶと、つい、国粋主義的な思想傾向に走りがちです。これは万国共通のようで、浪漫派の文学者は、どこの国でも国粋主義的な傾向を持つことが多いようです。その最たる者が、三島由紀夫でしょう。 よくよく気をつけなければなりません。 石原慎太郎が、真にナショナルなものしかインターナショナルにはなれない、と言っています。逆に言えば、どんな独特な芸術でも、古典の裏づけを持ったすばらしいものなら、世界中に受け入れられる、ということでしょうか。
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